続・報道と名誉・プライバシーの関係について調べてみました。


プライバシーについてはもう言及してたんですが、テスト勉強もかねてもう一度。
前の日記はこれです。
http://d.hatena.ne.jp/ayaayako/20071114/1194882286
ひとりで放っておいてもらう権利として19世紀アメリカで主張されたプライバシー権ですが、今では情報化社会の展開をふまえてより積極的な、自己情報のコントロール権・自己決定権として発展してきています。


日本では、プライバシーの権利は13条の幸福追求権の一種として憲法上保障されています。判例も結構あります。


(東京地判昭62・11・20)「ノンフィクション「逆転」事件」下級審

「ある者が刑事事件につき被疑者とされ、さらには被告人として公訴を提起されて判決を受け、とりわけ有罪判決を受け、服役したという事実は、その者の名誉あるいは信用に直接にかかわる事項であるから、その者は、みだりに右の前科等にかかわる事実を公表されないことにつき、法的保護に値する利益を有するものというべきである。この理は、右の前科等にかかわる事実の公表が公的機関によるものであっても、私人又は私的団体によるものであっても変わるものではない。そして、その者が有罪判決を受けた後あるいは服役を終えた後においては、一市民として社会に復帰することが期待されるのであるから、その者は、前科等にかかわる事実の公表によって、新しく形成している社会生活の平穏を害されその更生を妨げられない利益を有するというべきである。」
「もっとも、ある者の前科等にかかわる事実は、他面、それが刑事事件ないし刑事裁判という社会一般の関心あるいは批判の対象となるべき事項にかかわるものであるから、事件それ自体を公表することに歴史的又は社会的な意義が認められるような場合には、事件の当事者についても、その実名を明らかにすることが許されないとはいえない。また、その者の社会的活動の性質あるいはこれを通じて社会に及ぼす影響力の程度などのいかんによっては、その社会的活動に対する批判あるいは評価の一資料として、右の前科等にかかわる事実が公表されることを受忍しなければならない場合もあるといわなければならない。さらにまた、その者が選挙によって選出される公職にある者あるいはその候補者など、社会一般の正当な関心の対象となる公的立場にある人物である場合には、その者が公職にあることの適否などの判断の一資料として右の前科等にかかわる事実が公表されたときは、これを違法というべきものではない。」
「そして、ある者の前科等にかかわる事実が実名を使用して著作物で公表された場合に、以上の諸点を判断するためには、その著作物の目的、性格等に照らし、実名を使用することの意義及び必要性を併せ考えることを要するというべきである。」
「要するに、前科等にかかわる事実については、これを公表されない利益が法的保護に値する場合があると同時に、その公表が許されるべき場合もあるのであって、ある者の前科等にかかわる事実を実名を使用して著作物で公表したことが不法行為を構成するか否かは、その者のその後の生活状況のみならず、事件それ自体の歴史的又は社会的な意義、その当事者の重要性、その者の社会的活動及びその影響力について、その著作物の目的、性格等に照らした実名使用の意義及び必要性をも併せて判断すべきもので、その結果、前科等にかかわる事実を公表されない法的利益が優越するとされる場合には、その公表によって被った精神的苦痛の賠償を求めることができるものといわなければならない。なお、このように解しても、著作者の表現の自由を不当に制限するものではない。けだし、表現の自由は、十分に尊重されなければならないものであるが、常に他の基本的人権に優越するものではなく、前科等にかかわる事実を公表することが憲法の保障する表現の自由の範囲内に属するものとして不法行為責任を追求される余地がないものと解することはできないからである。」


(最判昭56・4・14)「前科照会事件」

 前科及び犯罪経歴(以下「前科等」という。)は人の名誉、信用に直接にかかわる事項であり、前科等のある者もこれをみだりに公開されないという法律上の保護に値する利益を有するのであつて、市区町村長が、本来選挙資格の調査のために作成保管する犯罪人名簿に記載されている前科等をみだりに漏えいしてはならないことはいうまでもないところである。前科等の有無が訴訟等の重要な争点となつていて、市区町村長に照会して回答を得るのでなければ他に立証方法がないような場合には、裁判所から前科等の照会を受けた市区町村長は、これに応じて前科等につき回答をすることができるのであり、同様な場合に弁護士法二三条の二に基づく照会に応じて報告することも許されないわけのものではないが、その取扱いには格別の慎重さが要求されるものといわなければならない。本件において、原審の適法に確定したところによれば、京都弁護士会が訴外A弁護士の申出により京都市伏見区役所に照会し、同市中京区長に回付された被上告人の前科等の照会文書には、照会を必要とする事由としては、右照会文書に添付されていたA弁護士の照会申出書に「中央労働委員会京都地方裁判所に提出するため」とあつたにすぎないというのであり、このような場合に、市区町村長が漫然と弁護士会の照会に応じ、犯罪の種類、軽重を問わず、前科等のすべてを報告することは、公権力の違法な行使にあたると解するのが相当である。


(最判平1・9・5) 「ノンフィクション「逆転」事件」最高裁

「前科等にかかわる事実については、これを公表されない利益が法的保護に値する場合があると同時に、その公表が許されるべき場合もあるのであって、ある者の前科等にかかわる事実を実名を使用して著作物で公表したことが不法行為を構成するか否かは、その者のその後の生活状況のみならず、事件それ自体の歴史的又は社会的な意義、その当事者の重要性、その者の社会的活動及びその影響力について、その著作物の目的、性格等に照らした実名使用の意義及び必要性をも併せて判断すべきもので、その結果、前科等にかかわる事実を公表されない法的利益が優越するとされる場合には、その公表によって被った精神的苦痛の賠償を求めることができるものといわなければならない。なお、このように解しても、著作者の表現の自由を不当に制限するものではない。けだし、表現の自由は、十分に尊重されなければならないものであるが、常に他の基本的人権に優越するものではなく、前科等にかかわる事実を公表することが憲法の保障する表現の自由の範囲内に属するものとして不法行為責任を追求される余地がないものと解することはできないからである。」


(最大判昭44・12・24)

「身体の拘束を受けている被疑者の写真撮影を規定した刑訴法二一八条二項のような場合のほか、次のような場合には、撮影される本人の同意がなく、また裁判官の令状がなくても、警察官による個人の容ぼう等の撮影が許容されるものと解すべきである。すなわち、現に犯罪が行なわれもしくは行なわれたのち間がないと認められる場合であつて、しかも証拠保全の必要性および緊急性があり、かつその撮影が一般的に許容される限度をこえない相当な方法をもつて行なわれるときである。このような場合に行なわれる警察官による写真撮影は、その対象の中に、犯人の容ぼう等のほか、犯人の身辺または被写体とされた物件の近くにいたためこれを除外できない状況にある第三者である個人の容ぼう等を含むことになつても、憲法一三条、三五条に違反しないものと解すべきである。」


あまりプライバシーという言葉を使うことは好きではないようです。
権利侵害の要件としては、下級審ですが、次のものが有名です。


(東京地判昭39・9・28)「「宴のあと」事件」下級審

「 被告等がこのような原告の私生活を「のぞき見」し、もしくは「のぞき見したかのような」描写を公開したことによつて、原告はいわゆるプライバシーを侵害されたものである。
プライバシーすなわち身体のうち通常衣服をまとつている部分、夫婦の寝室および家庭の内状、非公開の私室における男女の愛情交歓などその性質が純然たる私生活の領域に属し、しかも他人の生活に直接影響を及ぼさない事項については他人から「のぞき見」を受け、その結果を公開されること、もしくは「のぞき見」の結果であるかのような描写が公開されることから法律上保護される権利ないし利益は民法第709条によつて認められるものであるが、プライバシーが実定法の保護を受ける権利ないし利益であることは次のような根拠からも明かにされる。
世界人権宣言第1、2条は、「何人も、その私生活、家族、家庭、通信に対する、専断的な干渉を受けたり、その名誉と信用に対する攻撃を受けたりすることはない。人はすべてこのような干渉と攻撃に対して法の保護を受ける権利を有する」と定め、現代法の基本原則の一が私生活の保護にあることを明にしており、民法第709条もこの立場で解釈適用されるべきである。
日本国憲法第13条は、すべて国民が個人として尊重されるとともに、個人の幸福追求に関する権利は、国政上最大の尊重を必要とする旨を明かにしている。プライバシーの尊重は、個人の尊厳の確立と、個人の幸福追求権の実現にほかならないから、国家は国民の一人が現にプライバシーを侵害され幸福追求の権利を妨げられている場合には、その侵害を排除し損害の填補を受けられるように一切の便宜を提供することを要するものと解すべきであり、民法第709条の解釈適用はこの立場においてなされなければならない。
プライバシー侵害のうち、一定の身分ある者すなわち医師、薬剤師、薬種商、産婆、弁護士、弁護人、公証人、宗教もしくは祷祀の職にある者、またはこれらの職にあつた者が業務に関連して知得した他人の秘密をもらす行為や、正当な理由がないのに他人間の信書を開披する行為は刑法上処罰の対象とされる犯罪行為であり、(刑法第133条第134条)、これら刑事処分の対象となる特殊な行為には該当しないとしても一般にプライバシーが民事上の保護に親しむ権利ないし利益であることは明らかである。
これを要するに、各人の私生活はその人にとつてのサンクチユアリー(聖所)であり、各人は「一人でいることに由来する幸福」を追求する権利を法律上保障されているものであるから、第三者がこのサンクチユアリーに立入つて、出版、映画、演劇、ラジオ、テレビ、写真等の手段(少くとも百人単位以上の多数人に対し伝達の可能性がある手段)でその内容を公開することは、たとえその結果が公開された者の名誉を傷つけず、また信用を低下させるものでないとしても、公開すること自体が人格的利益の不当な侵害であり、このようなプライバシーの侵害から個人を救済することが現代における法の要求に合致するものである。
このようにプライバシーの侵害は、人が通常他人の面前で公表されることを欲しない私生活を「のぞき見」し、または「のぞき見したかのように」して、「のぞき見」しなければ観察できないような私生活の領域に属する事実を推測や想像を交えて作り出して公開することであり、公開された内容が事実に合致する場合は勿論、それが事実そのままでないとしても「のぞき見」された特定人の私生活らしい外観を呈するときはなおプライバシーの侵害となるものである。」
「 言論および表現の自由が民主主義の基礎であるならば、その基礎の底に大きく横たわつているのが個人の尊厳である。したがつて言論および表現の自由が個人の利益よりも優位に立つということは考えられない。
 むしろ一般的にいえば、プライバシーの権利は言論および表現の自由に優先するものと考えるのが正しく、たゞプライバシーの侵害とみえても公表の方法が報道記事であつて公共の福祉に関係する事項であるときや、公人、公職の候補者に関する事項のような特殊な違法阻却事由があるときに限つて、国民の「知る権利」が優先するにすぎないものというべきである。」
「 言論および表現の自由は、表現者の受ける個人的利益のほかに社会一般の人がこの表現を受け取るという利益、すなわち「話す、書くことの自由」のほかに「読む、聞く、知ることの自由」をも包含しており、これらが民主主義の前提条件である。これに対しいわゆるプライバシーは原告の主張によれば個人尊重の自由および幸福追求の権利の一であるというから、この権利は個人の利益を図るものであるのに対し言論および表現の自由は社会一般の利益を図るものであり、民主主義の基盤を作るものであるから、両者が抵触するときは後者の優位が考慮されなければならない。」
「私生活の公開とは、公開されたところが必ずしもすべて真実でなければならないものではなく、一般の人が公開された内容をもつて当該私人の私生活であると誤認しても不合理でない程度に真実らしく受け取られるものであれば、それはなおプライバシーの侵害としてとらえることができるものと解すべきである。けだし、このような公開によつても当該私人の私生活とくに精神的平穏が害われることは、公開された内容が真実である場合とさしたる差異はないからである。むしろプライバシーの侵害は多くの場合、虚実がないまぜにされ、それが真実であるかのように受け取られることによつて発生することが予想されるが、ここで重要なことは公開されたところが客観的な事実に合致するかどうか、つまり真実か否かではなく、真実らしく思われることによつて当該私人が一般の好奇心の的になり、あるいは当該私人をめぐつてさまざまな揣摩臆測が生じるであろうことを自ら意識することによつて私人が受ける精神的な不安、負担ひいては苦痛にまで至るべきものが、法の容認し難い不当なものであるか否かという点にあるものと考えられるからである。」
「プライバシーの侵害に対し法的な救済が与えられるためには、公開された内容が(イ)私生活上の事実または私生活上の事実らしく受け取られるおそれのあることがらであること、(ロ)一般人の感受性を基準にして当該私人の立場に立つた場合公開を欲しないであろうと認められることがらであること、換言すれば一般人の感覚を基準として公開されることによつて心理的な負担、不安を覚えるであろうと認められることがらであること、(ハ)一般の人々に未だ知られていないことがらであることを必要とし、このような公開によつて当該私人が実際に不快、不安の念を覚えたことを必要とするが、公開されたところが当該私人の名誉、信用というような他の法益を侵害するものであることを要しないのは言うまでもない。」


最後の段の3要件が注目されています。









判例はっただけですが、長くなるので、止めます。
報道の自由との関係をまた書けたら書きます。