報道と名誉・プライバシーの関係について調べてみました。


なんで表現の自由関連ばっかかというと、テストが近いからです。
テストがやばいと卒業できないのです。


メディアの報道によって、個人の名誉・プライバシーが侵害されてしまうこともありますが、どっちも重要な憲法上の権利。一概に「これはプライバシーを侵害している報道だから差止め!!!!」というわけにもいかないです。


まず、名誉は名誉毀損罪の規定により、刑事法上保護されています。


刑法230条(名誉毀損)
1項:公然と事実を摘示し、人の名誉を毀損した者は、その事実の有無にかかわらず、3年以下の懲役若しくは禁錮又は50万円以下の罰金に処する。
2項:死者の名誉を毀損した者は、虚偽の事実を摘示することによってした場合でなければ、罰しない。


不法行為責任によって民事法上も保護されています。


民法709条(不法行為による損害賠償)
故意又は過失によって他人の権利又は法律上保護される利益を侵害した者は、これによって生じた損害を賠償する責任を負う。


710条(財産以外の損害の賠償)
他人の身体、自由若しくは名誉を侵害した場合又は他人の財産権を侵害した場合のいずれであるかを問わず、前条の規定により損害賠償の責任を負う者は、財産以外の損害に対しても、その賠償をしなければならない。


ここでいう名誉とは、主観的な名誉感情ではなく、社会的名誉とされています。
詳しくは、刑法の日記参照。
http://d.hatena.ne.jp/ayaayako/20071115/1195141064


表現の自由も重要な憲法上の権利であるため、名誉侵害の責任をめぐっては免責の法理が法に規定されていたり、判例で展開されています。刑法の条文がまず有名どこです。


刑法230条の2(公共の利害に関する場合の特例)
1項:前条第1項の行為が公共の利害に関する事実に係り、かつ、その目的が専ら公益を図ることにあったと認める場合には、事実の真否を判断し、真実であることの証明があったときは、これを罰しない。
2項:前項の規定の適用については、公訴が提起されるに至っていない人の犯罪行為に関する事実は、公共の利害に関する事実とみなす。
3項:前条第1項の行為が公務員又は公選による公務員の候補者に関する事実に係る場合には、事実の真否を判断し、真実であることの証明があったときは、これを罰しない。


民事とあわせて判例もあります。
「相当の理由」がポイントのようです。


(最判昭41・6・23)

「 民事上の不法行為たる名誉棄損については、その行為が公共の利害に関する事実に係りもつぱら公益を図る目的に出た場合には、摘示された事実が真実であることが証明されたときは、右行為には違法性がなく、不法行為は成立しないものと解するのが相当であり、もし、右事実が真実であることが証明されなくても、その行為者においてその事実を真実と信ずるについて相当の理由があるときには、右行為には故意もしくは過失がなく、結局、不法行為は成立しないものと解するのが相当である(このことは、刑法二三〇条の二の規定の趣旨からも十分窺うことができる。)。
 本件について検討するに、原判決(その引用する第一審判決を含む。以下同じ。)によると、上告人は昭和三〇年二月施行の衆議院議員の総選挙の立候補者であるところ、被上告人は、その経営する新聞に、原判決の判示するように、上告人が学歴および経歴を詐称し、これにより公職選挙法違反の疑いにより警察から追及され、前科があつた旨の本件記事を掲載したが、右記事の内容は、経歴詐称の点を除き、いずれも真実であり、かつ、経歴詐称の点も、真実ではなかつたが、少くとも、被上告人において、これを真実と信ずるについて相当の理由があつたというのであり、右事実の認定および判断は、原判決挙示の証拠関係に照らし、十分これを肯認することができる。
 そして、前記の事実関係によると、これらの事実は、上告人が前記衆議院議員の立候補者であつたことから考えれば、公共の利害に関するものであることは明らかであり、しかも、被上告人のした行為は、もつぱら公益を図る目的に出たものであるということは、原判決の判文上十分了解することができるから、被上告人が本件記事をその新聞に掲載したことは、違法性を欠くか、または、故意もしくは過失を欠くものであつて、名誉棄損たる不法行為が成立しないものと解すべきことは、前段説示したところから明らかである。
 原判決は、その判文中にこれと異なる説示をした部分がないでもないが、本件記事の新聞の掲載について、被上告人の不法行為の成立を否定しているので、結局、原判決の判断は、中正当というべきである。」
「 原判決は、国会議員ないしその候補者については、その適否の判断にはほとんど全人格的な判断を必要とし、所論の事実もその適否の判断に関係のある事項であつて上告人の前科に関する本件記事が真実である以上その事実の公表は許される旨判示しているのであり、当審も上告理由第一点において判示したように、右判断を正当と考える。所論は、独自の見解に立ち、原判決を攻撃するものであつて、採用しがたい。」


(最大判昭44・6・25)

「刑法二三〇条ノ二の規定は、人格権としての個人の名誉の保護と、憲法二一条による正当な言論の保障との調和をはかつたものというべきであり、これら両者間の調和と均衡を考慮するならば、たとい刑法二三〇条ノ二第一項にいう事実が真実であることの証明がない場合でも、行為者がその事実を真実であると誤信し、その誤信したことについて、確実な資料、根拠に照らし相当の理由があるときは、犯罪の故意がなく、名誉毀損の罪は成立しないものと解するのが相当である。これと異なり、右のような誤信があつたとしても、およそ事実が真実であることの証明がない以上名誉毀損の罪責を免れることがないとした当裁判所の前記判例(昭和三三年(あ)第二六九八号同三四年五月七日第一小法廷判決、刑集一三巻五号六四一頁)は、これを変更すべきものと認める。したがつて、原判決の前記判断は法令の解釈適用を誤つたものといわなければならない。
 ところで、前記認定事実に相応する公訴事実に関し、被告人側の申請にかかる証人Cが同公訴事実の記事内容に関する情報を和歌山市役所の職員から聞きこみこれを被告人に提供した旨を証言したのに対し、これが伝聞証拠であることを理由に検察官から異議の申立があり、第一審はこれを認め、異議のあつた部分全部につきこれを排除する旨の決定をし、その結果、被告人は、右公訴事実につき、いまだ右記事の内容が真実であることの証明がなく、また、被告人が真実であると信ずるにつき相当の理由があつたと認めることはできないものとして、前記有罪判決を受けるに至つており、原判決も、右の結論を支持していることが明らかである。
 しかし、第一審において、弁護人が「本件は、その動機、目的において公益をはかるためにやむなくなされたものであり、刑法二三〇条ノ二の適用によつて、当然無罪たるべきものである。」旨の意見を述べたうえ、前記公訴事実につき証人Cを申請し、第一審が、立証趣旨になんらの制限を加えることなく、同証人を採用している等記録にあらわれた本件の経過からみれば、C証人の立証趣旨は、被告人が本件記事内容を真実であると誤信したことにつき相当の理由があつたことをも含むものと解するのが相当である。」








プライバシーについてはまた明日。

将来給付の訴えについて調べてみました。


135条(将来給付の訴え)
将来の給付を求める訴えは、あらかじめその請求をする必要がある場合に限り、提起することができる。


将来給付の訴えの場合、口頭弁論終結後に現実化される給付義務の訴えに訴えの利益はあるのか、原告に請求適格が認められるか否かが問題となります。
個々の事案ごとに検討すべきですが、めちゃめちゃ有名な判例があります。長いです。



(最判昭56・12・16)「大阪国際空港事件」

「 しかし、そもそも法が一定の公共用飛行場についてこれを国営空港として運輸大臣がみずから設置、管理すべきものとしたゆえんのものは、これによつてその航空行政権の行使としての政策的決定を確実に実現し、国の航空行政政策を効果的に遂行することを可能とするにある、というべきである。すなわち、法は、航空機及びその運航、航空従事者、航空路、飛行場及び航空保安施設、航空運送事業並びに外国航空機等に関する広範な行政上の規制権限を運輸大臣に付与し、運輸大臣をして、これらの権限の行使により、航空機の航行の安全及び航空機の航行に起因する障害の防止を図るための方法を定め、航空機を運航して営む事業の秩序を確立し、社会、経済の進展、国際交流の活発化等により増大する航空運輸に対する需要と供給を調整し、他の諸政策分野と整合性のある航空行政政策を樹立し実施させることとしており、これに関する公共施設として航空法の定める公共用飛行場を設けている。そして、そのうち、私営又は公営の公共用飛行場については、設置者たる個人、法人又は地方公共団体がこれを管理し、運輸大臣は、法規上、その設置又は休止若しくは廃止に対する許可、管理規程の制定又は変更に対する認可その他の行政上の監督権限の行使を通じて、それを国の航空行政計画の一環として位置づけ、規制しうることとしているにとどまるのに対し、国際航空路線又は主要な国内航空路線に必要なものなど基幹となる公共用飛行場(空港整備法二条一項一、二号にいわゆる第一、二種空港)については、運輸大臣みずからが、又は法律により設立され運輸大臣の特別な指示ないし監督に服する特殊法人である新東京国際空港公団が、これを国営又は同公団営の空港として設置、管理し、公共の利益のためにその運営に当たるべきものとしている。それは、これら基幹となる公共用飛行場にあつては、その設置、管理のあり方がわが国の政治、外交、経済、文化等と深いかかわりを持ち、国民生活に及ぼす影響も大きく、したがつて、どの地域にどのような規模でこれを設置し、どのように管理するかについては航空行政の全般にわたる政策的判断を不可欠とするからにほかならないものと考えられる。
 右にみられるような空港国営化の趣旨、すなわち国営空港の特質を参酌して考えると、本件空港の管理に関する事項のうち、少なくとも航空機の離着陸の規制そのもの等、本件空港の本来の機能の達成実現に直接にかかわる事項自体については、空港管理権に基づく管理と航空行政権に基づく規制とが、空港管理権者としての運輸大臣と航空行政権の主管者としての運輸大臣のそれぞれ別個の判断に基づいて分離独立的に行われ、両者の間に矛盾乖離を生じ、本件空港を国営空港とした本旨を没却し又はこれに支障を与
える結果を生ずることがないよう、いわば両者が不即不離、不可分一体的に行使実現されているものと解するのが相当である。換言すれば、本件空港における航空機の離着陸の規制等は、これを法律的にみると、単に本件空港についての営造物管理権の行使という立場のみにおいてされるべきもの、そして現にされているものとみるべきではなく、航空行政権の行使という立場をも加えた、複合的観点に立つた総合的判断に基づいてされるべきもの、そして現にされているものとみるべきものである。
 ところで、別紙当事者目録記載の番号1ないし239の被上告人ら(原判決別紙二の第一ないし第四表記載の被上告人らないしその訴訟承継人ら)は、本件空港の供用に伴う騒音等により被害を受けているとし、人格権又は環境権に基づく妨害排除又は妨害予防の請求として、毎日午後九時から翌日午前七時までの間本件空港を航空機の離着陸に使用させることの差止めを求めるものであつて、その趣旨は、本件空港の設置・管理主体たる上告人に対し、いわゆる通常の民事上の請求として右のような不作為の給付請求権があると主張してこれを訴求するものと解される。そうすると、右の請求は、本件空港を一定の時間帯につき航空機の離着陸に使用させないということが本件空港の管理作用のみにかかわる単なる不作為にすぎず、およそ航空行政権の行使には関係しないものであるか、少なくとも管理作用の部面を航空行政権の行使とは法律上分離して給付請求の対象とすることができるとの見解を前提とするものということができる。
 しかしながら、前述のように、本件空港の離着陸のためにする供用は運輸大臣の有する空港管理権と航空行政権という二種の権限の、総合的判断に基づいた不可分一体的な行使の結果であるとみるべきであるから、右被上告人らの前記のような請求は、事理の当然として、不可避的に航空行政権の行使の取消変更ないしその発動を求める請求を包含することとなるものといわなければならない。したがつて、右被上告人らが行政訴訟の方法により何らかの請求をすることができるかどうかはともかくとして、上告人に対し、いわゆる通常の民事上の請求として前記のような私法上の給付請求権を有するとの主張の成立すべきいわれはないというほかはない。
 以上のとおりであるから、前記被上告人らの本件訴えのうち、いわゆる狭義の民事訴訟の手続により一定の時間帯につき本件空港を航空機の離着陸に使用させることの差止めを求める請求にかかる部分は、不適法というべきである。」



民事上の請求ではお門違い、というふうにされてしまった判例です。別にいいじゃんとはいえないんですね。法の世界は難しい。
ちなみにこの判例は、国家賠償法2条の関連でも有名です。



「 国家賠償法二条一項の営造物の設置又は管理の瑕疵とは、営造物が有すべき安全性を欠いている状態をいうのであるが、そこにいう安全性の欠如、すなわち、他人に危害を及ぼす危険性のある状態とは、ひとり当該営造物を構成する物的施設自体に存する物理的、外形的な欠陥ないし不備によつて一般的に右のような危害を生ぜしめる危険性かある場合のみならず、その営造物が供用目的に沿つて利用されることとの関連において危害を生ぜしめる危険性がある場合をも含み、また、その危害は、営造物の利用者に対してのみならず、利用者以外の第三者に対するそれをも含むものと解すべきである。すなわち、当該営造物の利用の態様及び程度が一定の限度にとどまる限りにおいてはその施設に危害を生ぜしめる危険性がなくても、これを超える利用によつて危害を生ぜしめる危険性がある状況にある場合には、そのような利用に供される限りにおいて右営造物の設置、管理には瑕疵があるというを妨げず、したがつて、右営造物の設置・管理者において、かかる危険性があるにもかかわらず、これにつき特段の措置を講ずることなく、また、適切な制限を加えないままこれを利用に供し、その結果利用者又は第三者に対して現実に危害を生ぜしめたときは、それが右設置・管理者の予測しえない事由によるものでない限り、国家賠償法二条一項の規定による責任を免れることができないと解されるのである。」



まだあります。というか、ここから本題。



「 民訴法二二六条(今の一一三条)はあらかじめ請求する必要があることを条件として将来の給付の訴えを許容しているが、同条は、およそ将来に生ずる可能性のある給付請求権のすべてについて前記の要件のもとに将来の給付の訴えを認めたものではなく、主として、いわゆる期限付請求権や条件付請求権のように、既に権利発生の基礎をなす事実上及び法律上の関係が存在し、ただ、これに基づく具体的な給付義務の成立が将来における一定の時期の到来や債権者において立証を必要としないか又は容易に立証しうる別の一定の事実の発生にかかつているにすぎず、将来具体的な給付義務が成立したときに改めて訴訟により右請求権成立のすべての要件の存在を立証することを必要としないと考えられるようなものについて、例外として将来の給付の訴えによる請求を可能ならしめたにすぎないものと解される。このような規定の趣旨に照らすと、継続的不法行為に基づき将来発生すべき損害賠償請求権についても、例えば不動産の不法占有者に対して明渡義務の履行完了までの賃料相当額の損害金の支払を訴求する場合のように、右請求権の基礎となるべき事実関係及び法律関係が既に存在し、その継続が予測されるとともに、右請求権の成否及びその内容につき債務者に有利な影響を生ずるような将来における事情の変動としては、債務者による占有の廃止、新たな占有権原の取得等のあらかじめ明確に予測しうる事由に限られ、しかもこれについては請求異議の訴えによりその発生を証明してのみ執行を阻止しうるという負担を債務者に課しても格別不当とはいえない点において前記の期限付債権等と同視しうるような場合には、これにつき将来の給付の訴えを許しても格別支障があるとはいえない。しかし、たとえ同一態様の行為が将来も継続されることが予測される場合であつても、それが現在と同様に不法行為を構成するか否か及び賠償すべき損害の範囲いかん等が流動性をもつ今後の複雑な事実関係の展開とそれらに対する法的評価に左右されるなど、損害賠償請求権の成否及びその額をあらかじめ一義的に明確に認定することができず、具体的に請求権が成立したとされる時点においてはじめてこれを認定することができるとともに、その場合における権利の成立要件の具備については当然に債権者においてこれを立証すべく、事情の変動を専ら債務者の立証すべき新たな権利成立阻却事由の発生としてとらえてその負担を債務者に課するのは不当であると考えられるようなものについては、前記の不動産の継続的不法占有の場合とはとうてい同一に論ずることはできず、かかる将来の損害賠償請求権については、冒頭に説示したとおり、本来例外的にのみ認められる将来の給付の訴えにおける請求権としての適格を有するものとすることはできないと解するのが相当である。」









行政法のカテゴリーでもあったかな??? まあいいやヾ(●´∀`)ノ

いろんな定義について調べてみました。


机の中から単語帳が出てきたので、まとめておきます。元ネタが全然思い出せません。
わたしわかってるんですよー、と解答用紙に書けば、何点か加点されるかなーとか思ってます。



570条「隠れた瑕疵」

取引上一般の買主が通用要求される注意を尽くしても発見できない瑕疵。


95条「要素」の錯誤

その点につき錯誤がなければそのような意思表示をしなかったであろうし、かつ一般人も意思表示しなかったであろうと考える場合。


109条「表示」(観念の通知)

ある事実を通知すること。


501条代位弁済

代位弁済者の債務者に対する求償権を確保するために、法の規定によって、弁済により消滅するはずの原債権及び担保権を代位弁済者に移転させ、代位債権者が求償権の範囲内で原債権及び担保権を行使することを認める制度。







今日はこれだけです。

留置権について調べてみました。

担保物権は苦手なんです。漠然としていると思うのはわたしだけでしょうか。
留置権民法の7章、295条以下に規定されています。


295条(留置権の内容)
1項:他人の物の占有者は、その物に関して生じた債権を有するときは、その債権の弁済を受けるまで、その物を留置することができる。ただし、その債権が弁済期にないときは、この限りでない。
2項:前項の規定は、占有が不法行為によって始まった場合には、適用しない。


問題とかでは、屋根を直した賃借人が、その必要費を理由に、賃貸借契約終了後も、建物の明け渡しを拒めるかどうか…のような形でよく出題されます。
意外に判例があったので、とりあえず並べてみました。


まず、造作買取請求権を被担保債権として家屋を留置しうるかについて。


(最判昭29・1・14)

借家法第五条による造作買取代金債権は、造作に関して生じた債権であつて、建物に関して生じた債権ではない。


必要費の場合は、留置権は成立しますが(196条ですぐにでも請求できるので)、賃貸借契約が終了した後に、必要費を払った場合に留置権が成立するかには295条2項との関係で、問題があります。


(最判昭46・7・16)

「亡Aが、本件建物の賃貸借契約が解除された後は右建物を占有すべき権原のないことを知りながら不法にこれを占有していた旨の原判決の認定・判断は、挙示の証拠関係に徴し首肯することができる。そして、Aが右のような状況のもとに本件建物につき支出した有益費の償還請求権については、民法二九五条二項の類推適用により、上告人らは本件建物につき、右請求権に基づく留置権を主張することができないと解すべきである。」


占有者が悪意の場合はやっぱり留置権は成立しないようです。


(最判昭51・6・17)

「国が自作農創設特別措置法に基づき、農地として買収したうえ売り渡した土地を、被売渡人から買い受けその引渡を受けた者が、土地の被買収者から右買収・売渡処分の無効を主張され所有権に基づく土地返還訴訟を提起されたのち、右土地につき有益費を支出したとしても、その後右買収・売渡処分が買収計画取消判決の確定により当初に遡つて無効とされ、かつ、買主が有益費を支出した当時右買収・売渡処分の無効に帰するかもしれないことを疑わなかつたことに過失がある場合には、買主は、民法二九五条二項の類推適用により、右有益費償還請求権に基づき土地の留置権を主張することはできないと解するのが相当である。」


善意有過失のものに対する留置権を否定しています。
もっとも、善意有過失のものについて、常に留置権の成立を否定するものではなく、公平の観念に基づいて、事案ごとに検討すべきといわれています。


295条1項の「物に関して生じた債権」といえるかについても問題となります。
判例の事案は、甲所有の物を買受けた乙が売買代金を支払わないままこれを丙に譲渡した場合に丙の甲に対する物の引渡請求と甲の留置権が認められるかというものです。


(最判昭47・11・16)

「残代金債権は本件土地建物の明渡請求権と同一の売買契約によつて生じた債権であるから、民法二九五条の規定により、上告人はAに対し、残代金の弁済を受けるまで、本件土地建物につき留置権を行使してその明渡を拒絶することができたものといわなければならない。ところで、留置権が成立したのち債務者からその目的物を譲り受けた者に対しても、債権者がその留置権を主張しうることは、留置権が物権であることに照らして明らかであるから、本件においても、上告人は、Aから本件土地建物を譲り受けた被上告人に対して、右留置権を行使することをうるのである。もつとも、被上告人は、本件土地建物の所有権を取得したにとどまり、前記残代金債務の支払義務を負つたわけではないが、このことは上告人の右留置権行使の障害となるものではない。」






判例を検索したりするうちに、こんなページも見つけました!!!!まとまってる!!!!
http://www2.ttcn.ne.jp/~kanrishi-g/min/hanrei/h0295.html

占有と相続について調べてみました。


久々民法民法もそんなに好きじゃないです。
親が借りてた家を、親の持ち家だと思い込んで、親の死亡で相続した子どもが10年ないし20年占有した場合どうなるか…という問題です。
論点がわりかし多い論点なので適当にまとめておこうと思いました。


子どもが家の時効取得を主張することが考えられますが、それには「所有の意思をもって」占有しなければなりません。


162条(所有権の取得時効)
1項:二十年間、所有の意思をもって、平穏に、かつ、公然と他人の物を占有した者は、その所有権を取得する。
2項:十年間、所有の意思をもって、平穏に、かつ、公然と他人の物を占有した者は、その占有の開始の時に、善意であり、かつ、過失がなかったときは、その所有権を取得する。


でも、親から子どもへ、占有権の相続があったと考えれば、子どもの占有は、親の他主占有(家を借りているという所有の意思のない占有)を引き継いだものとなり、取得時効ができないのではないかとも考えられます。
そこで、まず、占有権が「一切の権利義務」に含まれるか、検討する必要があります(いつも忘れちゃいます)。


896条(相続の一般的効力)
相続人は、相続開始の時から、被相続人の財産に属した一切の権利義務を承継する。ただし、被相続人の一身に専属したものは、この限りでない。


結論からいうと、「一切の権利義務」に含まれます。当たり前のような気もします。
その理由としては、1 被相続人(親)の段階で継続していた取得時効が中断してしまうこと、2 占有訴権を行使する人がいなくなってしまう(大家さんにとっても不利)、3 社会通念上占有権も相続の対象とされる等があります。


とすると、子どもが相続した占有は、親の「他主占有」なので、そのままでは、所有権の時効取得ができないことになってしまいます。
しかし、相続後、子どもが家にずっと住んでいて、それでも時効取得できないというのは子どもがかわいそうです。なので、この場合、子どもが「俺は10年住んだから、所有権を取得しているんだ!!!!」といえること、すなわち、子どもが自己固有の占有を主張できるかを検討することになります。
自己固有の占有を主張するには、「占有者の承継人」にあたればいいのですが、これに当たるか否かには、古い判例があります。


187条(占有の承継)
1項:占有者の承継人は、その選択に従い、自己の占有のみを主張し、又は自己の占有に前の占有者の占有を併せて主張することができる。
2項:前の占有者の占有を併せて主張する場合には、その瑕疵をも承継する。


(最判昭37・5・18)

民法一八七条一項は「占有者ノ承継人ハ其選択ニ従ヒ自己ノ占有ノミヲ主張シ又ハ自己ノ占有ニ前主ノ占有ヲ併セテ之ヲ主張スルコトヲ得」と規定し、右は相続の如き包括承継の場合にも適用せられ、相続人は必ずしも被相続人の占有についての善意悪意の地位をそのまま承継するものではなく、その選択に従い自己の占有のみを主張し又は被相続人の占有に自己の占有を併せて主張することができるものと解するを相当とする。従つて上告人は先代Bの占有に自己の占有を併せてこれを主張することができるのであつて、若し上告人先代Bが家督相続により上告人先々代Aの本件土地に対する占有を承継した始めに善意、無過失であつたとすれば、同人らが平穏かつ公然に占有を継続したことは原判示により明らかであるから、一〇年の取得時効の完成により本件土地の所有権は上告人に帰属することになる。」


子どもの占有にも、占有の二面性が認められるので、子どもも「占有者の承継人」にあたります。
もっとも、自己固有の占有を主張できるとしても、他主占有は他主占有。そのままでは時効取得できません。
そこで、相続による占有を「新たな権原」とし、他主占有を自主占有へと転換することができないかが問題となります。


185条(占有の性質の変更)
権原の性質上占有者に所有の意思がないものとされる場合には、その占有者が、自己に占有をさせた者に対して所有の意思があることを表示し、又は新たな権原により更に所有の意思をもって占有を始めるのでなければ、占有の性質は、変わらない。


「新たな権原」にあたるか否かにも、判例があります。


(最判昭46・11・30)

「訴外Aは、かねて兄である被上告人から、その所有の本件土地建物の管理を委託されたため、本件建物の南半分に居住し、本件土地および本件建物の北半分の賃料を受領していたところ、同訴外人は昭和二四年六月一五日死亡し、上告人らが相続人となり、その後も、同訴外人の妻上告人Bにおいて本件建物の南半分に居住するとともに、本件土地および本件建物の北半分の賃料を受領してこれを取得しており、被上告人もこの事実を了知していたというのである。しかも、上告人Cおよび同Dが、右訴外人死亡当時それぞれ六才および四才の幼女にすぎず、上告人Bはその母であり親権者であつて、上告人Cおよび同Dも上告人Bとともに本件建物の南半分に居住していたことは当事者間に争いがない。
 以上の事実関係のもとにおいては、上告人らは、右訴外人の死亡により、本件土地建物に対する同人の占有を相続により承継したばかりでなく、新たに本件土地建物を事実上支配することによりこれに対する占有を開始したものというべく、したがつて、かりに上告人らに所有の意思があるとみられる場合においては、上告人らは、右訴外人の死亡後民法一八五条にいう「新権原ニ因リ」本件土地建物の自主占有をするに至つたものと解するのを相当とする。」






物権・担保物件は民法の中でも苦手です。
あと、「子ども」と書いてましたが、つまりは相続人です。

続・表現の自由について調べてみました。


表現の自由に代表される精神的自由は、民主政治の過程で回復可能な経済的自由に比べ、厳格な違憲審査基準が適用されることは有名です(二重の基準論)。
厳格な審査基準にもいろいろあります。判例がとっているものもいろいろです。


(最大判昭29・11・24)「新潟県公安条例事件」

「行列行進又は公衆の集団示威運動(以下単にこれらの行動という)は、公共の福祉に反するような不当な目的又は方法によらないかぎり、本来国民の自由とするとこるであろから、条例においてこれらの行動につき単なる届出制を定めることは格別、そうでなく一般的な許可制を定めてこれを事前に抑制することは、憲法の趣旨に反し許されないと解するを相当とする。しかしこれらの行動といえども公共の秩序を保持し、又は公共の福祉が著しく侵されることを防止するため、特定の場所又は方法につき、合理的かつ明確な基準の下に、予じめ許可を受けしめ、又は届出をなさしめてこのような場合にはこれを禁止することができる旨の規定を条例に設けても、これをもつて直ちに憲法の保障する国民の自由を不当に制限するものと解することはできない。けだしかかる条例の規定は、なんらこれらの行動を一般に制限するのでなく、前示の観点から単に特定の場所又は方法について制限する場合があることを認めるた過ぎないからである。さらにまた、これらの行動について公共の安全に対し明らかな差迫つた危険を及ぼすことが予見されるときは、これを許可せず又は禁止することができる旨の規定を設けることも、これをもつて直ちに憲法の保障する国民の自由を不当に制限することにはならないと解すべきである。」


「明白かつ現在の危険の法理」です。条例は合憲という判例ですが、反対意見もあります。


LRAの基準を採用する判例もあります。
猿払事件の第一審判決は、被告人を無罪としています。


(旭川地判昭43・3・25)

憲法21条1項の保障する表現の自由に由来する政治活動を行う国民の権利は、立法その他国政の上で最大の尊重を必要とする国民の基本的人権の中でも最も重要な権利の一であると解されるが、右の自由と絶対無制限のものではないばかりでなく、全体の奉仕者であつて一部の奉仕者でない国家公務員の身分を取得することにより、ある程度の制約を受けざるを得ないことは論をまたないところであるが、政治活動を行う国民の権利の民主主義社会における重要性を考えれば国家公務員の政治活動の制約の程度は、必要最小限度のものでなければならない。」
「公務員中国の政策決定を密着した職務を担当する者、直接公権力の行使にあたる者、行政上の裁量権保有する者および自分自身には裁量権はないが、以上のような職務の公務員を補佐し、いわゆる行政過程に関与する非現業の職員については、これら公務員が一党一派に偏した活動を行うことにより、これがその職務執行に影響し、公務の公正な運営が害され、ひいては行政事務の継続性、安定性およびその能率が害されるに至る虞が強いことはいうをまたないところである。これに反し行政過程に全く関与せず且つその業務内容が細目迄具体的に定められているため機械的労務を提供するにすぎない非管理職にある現業公務員が政治活動をする場合、それが職務の公正な運営、行政事務の継続性、安定性およびその能率を害する程度は、右の場合に比し、より少ないと思料される。勿論右に述べたような現業公務員が国の施設を利用し、政治活動をするならばこれがその職務の能率に影響を及ぼさないとはいえないから、合理的な程度においてならば、このような政治活動を国が合憲的に規制し得るものであり、人事院規則14-7、6項12号はこの禁止規定である。更に、これら職員がその職権その他公務員であることから生ずる公私の影響力を政治目的のために利用したならば、公務の中立性についての国民の信頼を裏切ることになるのは勿論であり、一般国民に与えられている政治活動の自由以上の力がこの種公務員に付与されることになり不合理であるから、このような行為は国が合憲的に規制し得るところであり、人事院規則14-7、6項1号は現にこのような政治活動を禁止する為の規定である。非管理者である現業職員を監督管理する地位にある職員も又行政過程に関与する職員の範疇に属するものであるが、その下に働く現業職員が、上司におもねり、政治的目的をもつ何らかの行為をし、昇進その他職員の地位に関し、利益を得ようと企てるならば公務の公正が害されるに至る虞なしとしないからこの種活動をも国は合憲的に規制し得るものと解されるのであり、人事院規制14-7、6項2号は現にこの種政治活動を禁止する規定である。現業公務員といえども勤務時間内に政治活動を行うとするならば職務の能率を害することは明らかであり、人事院規則14-7、6項1号ないし17号の所為が勤務時間内になされた場合これを禁止しても憲法に違反するものではない。」


ちなみに、最高裁はこれを採用しませんでした。


明確性の原則も重要です。表現の自由を制約する立法について、規定の明確性を要求します。
制約の対象や範囲が不明確であると、何が禁止されているのかが理解できず、表現の自由の行使を萎縮させるため、明確性を欠く制限立法はそれだけで違憲とされます。
有名な判例もあります。長いです。


(最大判昭50・9・10)「徳島市公安条例事件」

「このような集団行動は、通常、一般大衆又は当局に訴えようとする政治、経済、労働問題、世界観等に関する思想、主張等の表現を含むものであり、表現の自由として憲法上保障されるべき要素を有するのであるが、他面、それは、単なる言論、出版等によるものと異なり、多数人の身体的行動を伴うものであつて、多数人の集合体の力、つまり潜在する一種の物理的力によつて支持されていることを特徴とし、したがつて、それが秩序正しく平穏に行われない場合にこれを放置するときは、地域住民又は滞在者の利益を害するばかりでなく、地域の平穏をさえ害するに至るおそれがあるから、本条例は、このような不測の事態にあらかじめ備え、かつ、集団行動を行う者の利益とこれに対立する社会的諸利益との調和を図るため、一条において集団行進等につき事前の届出を必要とするとともに、三条において集団行進等を行う者が遵守すべき事項を定め、五条において遵守事項に違反した集団行進等の主催者、指導者又はせん動者に対し罰則を定め、もつて地方公共の安寧と秩序の維持を図つているのである。」
「 このように、道路交通法は道路交通秩序の維持を目的とするのに対し、本条例は道路交通秩序の維持にとどまらず、地方公共の安寧と秩序の維持という、より広はん、かつ、総合的な目的を有するのであるから、両者はその規制の目的を全く同じくするものとはいえないのである。
 もつとも、地方公共の安寧と秩序の維持という概念は広いものであり、道路交通法の目的である道路交通秩序の維持をも内包するものであるから、本条例三条三号の遵守事項が単純な交通秩序違反行為をも対象としているものとすれば、それは道路交通法七七条三項による警察署長の道路使用許可条件と部分的には共通する点がありうる。しかし、そのことから直ちに、本条例三条三号の規定が国の法令である道路交通法に違反するという結論を導くことはできない。
 すなわち、地方自治法一四条一項は、普通地方公共団体は法令に違反しない限りにおいて同法二条二項の事務に関し条例を制定することができる、と規定しているから、普通地方公共団体の制定する条例が国の法令に違反する場合には効力を有しないことは明らかであるが、条例が国の法令に違反するかどうかは、両者の対象事項と規定文言を対比するのみでなく、それぞれの趣旨、目的、内容及び効果を比較し、両者の間に矛盾牴触があるかどうかによつてこれを決しなければならない。例えば、ある事項について国の法令中にこれを規律する明文の規定がない場合でも、当該法令全体からみて、右規定の欠如が特に当該事項についていかなる規制をも施すことなく放置すべきものとする趣旨であると解されるときは、これについて規律を設ける条例の規定は国の法令に違反することとなりうるし、逆に、特定事項についてこれを規律する国の法令と条例とが併存する場合でも、後者が前者とは別の目的に基づく規律を意図するものであり、その適用によつて前者の規定の意図する目的と効果をなんら阻害することがないときや、両者が同一の目的に出たものであつても、国の法令が必ずしもその規定によつて全国的に一律に同一内容の規制を施す趣旨ではなく、それぞれの普通地方公共団体において、その地方の実情に応じて、別段の規制を施すことを容認する趣旨であると解されるときは、国の法令と条例との間にはなんらの矛盾牴触はなく、条例が国の法令に違反する問題は生じえないのである。
 これを道路交通法七七条及びこれに基づく徳島県道路交通施行細則と本条例についてみると、徳島市内の道路における集団行進等について、道路交通秩序維持のための行為規制を施している部分に関する限りは、両者の規律が併存競合していることは、これを否定することができない。しかしながら、道路交通法七七条一項四号は、同号に定める通行の形態又は方法による道路の特別使用行為等を警察署長の許可によつて個別的に解除されるべき一般的禁止事項とするかどうかにつき、各公安委員会が当該普通地方公共団体における道路又は交通の状況に応じてその裁量により決定するところにゆだね、これを全国的に一律に定めることを避けているのであつて、このような態度から推すときは、右規定は、その対象となる道路の特別使用行為等につき、各普通地方公共団体が、条例により地方公共の安寧と秩序の維持のための規制を施すにあたり、その一環として、これらの行為に対し、道路交通法による規制とは別個に、交通秩序の維持の見地から一定の規制を施すこと自体を排斥する趣旨まで含むものとは考えられず、各公安委員会は、このような規制を施した条例が存在する場合には、これを勘案して、右の行為に対し道路交通法の前記規定に基づく規制を施すかどうか、また、いかなる内容の規制を施すかを決定するヒとができるものと解するのが、相当である。そうすると、道路における集団行進等に対する道路交通秩序維持のための具体的規制が、道路交通法七七条及びこれに基づく公安委員会規則と条例の双方において重複して施されている場合においても、両者の内容に矛盾牴触するところがなく、条例における重複規制がそれ自体としての特別の意義と効果を有し、かつ、その合理性が肯定される場合には、道路交通法による規制は、このような条例による規制を否定、排除する趣旨ではなく、条例の規制の及ばない範囲においてのみ適用される趣旨のものと解するのが相当であり、したがつて、右条例をもつて道路交通法に違反するものとすることはできない。
 ところで、本条例は、さきにも述べたように、道路における場合を含む集団行進等に対し、このような社会的行動のもつ特殊な性格にかんがみ、道路交通秩序の維持を含む地方公共の安寧と秩序の維持のための特別の、かつ、総体的な規制措置を定めたものであつて、道路交通法七七条及びこれに基づく徳島県道路交通施行細則による規制とその目的及び対象において一部共通するものがあるにせよ、これとは別個に、それ自体として独自の目的と意義を有し、それなりにその合理性を肯定することができるものである。そしてその内容をみても、本条例は集団行進等に対し許可制をとらず届出制をとつているが、それはもとより道路交通法上の許可の必要を排除する趣旨ではなく、また、本条例三条に遵守事項として規定しているところも、のちに述べるように、道路交通法に基づいて禁止される行為を特に禁止から解除する等同法の規定の趣旨を妨げるようなものを含んでおらず、これと矛盾牴触する点はみあたらない。もつとも、本条例五条は、三条の規定に違反する集団行進等の主催者、指導者又はせん動者に対して一年以下の懲役若しくは禁錮又は五万円以下の罰金を科するものとしているのであつて、これを道路交通法一一九条一項一三号において同法七七条三項により警察署長が付した許可条件に違反した者に対して三月以下の懲役又は三万円以下の罰金を科するものとしているのと対比するときは、同じ道路交通秩序維持のための禁止違反に対する法定刑に相違があり、道路交通法所定の刑種以外の刑又はより重い懲役や罰金の刑をもつて処罰されることとなつているから、この点において本条例は同法に違反するものではないかという疑問が出されるかもしれない。しかしながら、道路交通法の右罰則は、同法七七条所定の規制の実効性を担保するために、一般的に同条の定める道路の特別使用行為等についてどの程度に違反が生ずる可能性があるか、また、その違反が道路交通の安全をどの程度に侵害する危険があるか等を考慮して定められたものであるのに対し、本条例の右罰則は、集団行進等という特殊な性格の行動が帯有するさまざまな地方公共の安寧と秩序の侵害の可能性及び予想される侵害の性質、程度等を総体的に考慮し、殊に道路における交通の安全との関係では、集団行進等が、単に交通の安全を侵害するばかりでなく、場合によつては、地域の平穏を乱すおそれすらあることをも考慮して、その内容を定めたものと考えられる。そうすると、右罰則が法定刑として道路交通法には定めのない禁錮刑をも規定し、また懲役や罰金の刑の上限を同法より重く定めていても、それ自体としては合理性を有するものということができるのである。そして、前述のとおり条例によつて集団行進等について別個の規制を行うことを容認しているものと解される道路交通法が、右条例においてその規制を実効あらしめるための合理的な特別の罰則を定めることを否定する趣旨を含んでいるとは考えられないところであるから、本条例五条の規定が法定刑の点で同法に違反して無効であるとすることはできない。」


事前に表現行為を差し止めることは、表現の自由の著しい制約となるため、原則禁止されます(事前抑制禁止の法理)。例外的に認められる場合もありますが、極めて限定的な場合に限られるべきであるといわれています。
前日にでてきた判例と同じです。


(最大判昭61・6・11)「北方ジャーナル事件

憲法二一条二項前段にいう検閲とは、行政権が主体となつて、思想内容等の表現物を対象とし、その全部又は一部の発表の禁止を目的として、対象とされる一定の表現物につき網羅的一般的に、発表前にその内容を審査したうえ、不適当と認めるものの発表を禁止することを、その特質として備えるものを指すと解すべきことは、前掲大法廷判決の判示するところである。ところで、一定の記事を掲載した雑誌その他の出版物の印刷、製本、販売、頒布等の仮処分による事前差止めは、裁判の形式によるとはいえ、口頭弁論ないし債務者の審尋を必要的とせず、立証についても疎明で足りるとされているなど簡略な手続によるものであり、また、いわゆる満足的仮処分として争いのある権利関係を暫定的に規律するものであつて、非訟的な要素を有することを否定することはできないが、仮処分による事前差止めは、表現物の内容の網羅的一般的な審査に基づく事前規制が行政機関によりそれ自体を目的として行われる場合とは異なり、個別的な私人間の紛争について、司法裁判所により、当事者の申請に基づき差止請求権等の私法上の被保全権利の存否、保全の必要性の有無を審理判断して発せられるものであつて、右判示にいう「検閲」には当たらないものというべきである。」
「人の品性、徳行、名声、信用等の人格的価値について社会から受ける客観的評価である名誉を違法に侵害された者は、損害賠償(民法七一〇条)又は名誉回復のための処分(同法七二三条)を求めることができるほか、人格権としての名誉権に基づき、加害者に対し、現に行われている侵害行為を排除し、又は将来生ずべき侵害を予防するため、侵害行為の差止めを求めることができるものと解するのが相当である。けだし、名誉は生命、身体とともに極めて重大な保護法益であり、人格権としての名誉権は、物権の場合と同様に排他性を有する権利というべきであるからである。」
「言論、出版等の表現行為により名誉侵害を来す場合には、人格権としての個人の名誉の保護(憲法一三条)と表現の自由の保障(同二一条)とが衝突し、その調整を要することとなるので、いかなる場合に侵害行為としてその規制が許されるかについて憲法上慎重な考慮が必要である。
 主権が国民に属する民主制国家は、その構成員である国民がおよそ一切の主義主張等を表明するとともにこれらの情報を相互に受領することができ、その中から自由な意思をもつて自己が正当と信ずるものを採用することにより多数意見が形成され、かかる過程を通じて国政が決定されることをその存立の基礎としているのであるから、表現の自由、とりわけ、公共的事項に関する表現の自由は、特に重要な憲法上の権利として尊重されなければならないものであり、憲法二一条一項の規定は、その核心においてかかる趣旨を含むものと解される。もとより、右の規定も、あらゆる表現の自由を無制限に保障しているものではなく、他人の名誉を害する表現は表現の自由の濫用であつて、これを規制することを妨げないが、右の趣旨にかんがみ、刑事上及び民事上の名誉毀損に当たる行為についても、当該行為が公共の利害に関する事実にかかり、その目的が専ら公益を図るものである場合には、当該事実が真実であることの証明があれば、右行為には違法性がなく、また、真実であることの証明がなくても、行為者がそれを真実であると誤信したことについて相当の理由があるときは、右行為には故意又は過失がないと解すべく、これにより人格権としての個人の名誉の保護と表現の自由の保障との調和が図られているものであることは、当裁判所の判例とするところであり、このことは、侵害行為の事前規制の許否を考察するに当たつても考慮を要するところといわなければならない。」
「出版物の頒布等の事前差止めは、このような事前抑制に該当するものであつて、とりわけ、その対象が公務員又は公職選挙の候補者に対する評価、批判等の表現行為に関するものである場合には、そのこと自体から、一般にそれが公共の利害に関する事項であるということができ、前示のような憲法二一条一項の趣旨(前記(二)参照)に照らし、その表現が私人の名誉権に優先する社会的価値を含み憲法上特に保護されるべきであることにかんがみると、当該表現行為に対する事前差止めは、原則として許されないものといわなければならない。ただ、右のような場合においても、その表現内容が真実でなく、又はそれが専ら公益を図る目的のものでないことが明白であつて、かつ、被害者が重大にして著しく回復困難な損害を被る虞があるときは、当該表現行為はその価値が被害者の名誉に劣後することが明らかであるうえ、有効適切な救済方法としての差止めの必要性も肯定されるから、かかる実体的要件を具備するときに限つて、例外的に事前差止めが許されるものというべきであり、このように解しても上来説示にかかる憲法の趣旨に反するものとはいえない。」
「事前差止めを命ずる仮処分命令を発するについては、口頭弁論又は債務者の審尋を行い、表現内容の真実性等の主張立証の機会を与えることを原則とすべきものと解するのが相当である。ただ、差止めの対象が公共の利害に関する事項についての表現行為である場合においても、口頭弁論を開き又は債務者の審尋を行うまでもなく、債権者の提出した資料によつて、その表現内容が真実でなく、又はそれが専ら公益を図る目的のものでないことが明白であり、かつ、債権者が重大にして著しく回復困難な損害を被る虞があると認められるときは、口頭弁論又は債務者の審尋を経ないで差止めの仮処分命令を発したとしても、憲法二一条の前示の趣旨に反するものということはできない。けだし、右のような要件を具備する場合に限つて無審尋の差止めが認められるとすれば、債務者に主張立証の機会を与えないことによる実害はないといえるからであり、また、一般に満足的仮処分の決定に対しては債務者は異議の申立てをするとともに当該仮処分の執行の停止を求めることもできると解されるから、表現行為者に対しても迅速な救済の途が残されているといえるのである。」






判例表現の自由に対する考慮が欠如しているようなものが多いです。
メディア法とる前は当たり前かなーと思っていたのですが、放送法とかにも疑問が生じるようになってきました。

表現の自由について調べてみました。


メディア法の授業をとってると、メディア側の味方したくなってきます。
名誉・プライバシー権や検閲、事前差止との関係で、メディア側の表現の自由、視聴者側の知る権利が問題となります。


有名な判例があります。長いです。


(最大判昭61・6・11)「北方ジャーナル事件

憲法二一条二項前段にいう検閲とは、行政権が主体となつて、思想内容等の表現物を対象とし、その全部又は一部の発表の禁止を目的として、対象とされる一定の表現物につき網羅的一般的に、発表前にその内容を審査したうえ、不適当と認めるものの発表を禁止することを、その特質として備えるものを指すと解すべきことは、前掲大法廷判決の判示するところである。ところで、一定の記事を掲載した雑誌その他の出版物の印刷、製本、販売、頒布等の仮処分による事前差止めは、裁判の形式によるとはいえ、口頭弁論ないし債務者の審尋を必要的とせず、立証についても疎明で足りるとされているなど簡略な手続によるものであり、また、いわゆる満足的仮処分として争いのある権利関係を暫定的に規律するものであつて、非訟的な要素を有することを否定することはできないが、仮処分による事前差止めは、表現物の内容の網羅的一般的な審査に基づく事前規制が行政機関によりそれ自体を目的として行われる場合とは異なり、個別的な私人間の紛争について、司法裁判所により、当事者の申請に基づき差止請求権等の私法上の被保全権利の存否、保全の必要性の有無を審理判断して発せられるものであつて、右判示にいう「検閲」には当たらないものというべきである。」
「人の品性、徳行、名声、信用等の人格的価値について社会から受ける客観的評価である名誉を違法に侵害された者は、損害賠償(民法七一〇条)又は名誉回復のための処分(同法七二三条)を求めることができるほか、人格権としての名誉権に基づき、加害者に対し、現に行われている侵害行為を排除し、又は将来生ずべき侵害を予防するため、侵害行為の差止めを求めることができるものと解するのが相当である。けだし、名誉は生命、身体とともに極めて重大な保護法益であり、人格権としての名誉権は、物権の場合と同様に排他性を有する権利というべきであるからである。」
「言論、出版等の表現行為により名誉侵害を来す場合には、人格権としての個人の名誉の保護(憲法一三条)と表現の自由の保障(同二一条)とが衝突し、その調整を要することとなるので、いかなる場合に侵害行為としてその規制が許されるかについて憲法上慎重な考慮が必要である。
 主権が国民に属する民主制国家は、その構成員である国民がおよそ一切の主義主張等を表明するとともにこれらの情報を相互に受領することができ、その中から自由な意思をもつて自己が正当と信ずるものを採用することにより多数意見が形成され、かかる過程を通じて国政が決定されることをその存立の基礎としているのであるから、表現の自由、とりわけ、公共的事項に関する表現の自由は、特に重要な憲法上の権利として尊重されなければならないものであり、憲法二一条一項の規定は、その核心においてかかる趣旨を含むものと解される。もとより、右の規定も、あらゆる表現の自由を無制限に保障しているものではなく、他人の名誉を害する表現は表現の自由の濫用であつて、これを規制することを妨げないが、右の趣旨にかんがみ、刑事上及び民事上の名誉毀損に当たる行為についても、当該行為が公共の利害に関する事実にかかり、その目的が専ら公益を図るものである場合には、当該事実が真実であることの証明があれば、右行為には違法性がなく、また、真実であることの証明がなくても、行為者がそれを真実であると誤信したことについて相当の理由があるときは、右行為には故意又は過失がないと解すべく、これにより人格権としての個人の名誉の保護と表現の自由の保障との調和が図られているものであることは、当裁判所の判例とするところであり、このことは、侵害行為の事前規制の許否を考察するに当たつても考慮を要するところといわなければならない。」
「出版物の頒布等の事前差止めは、このような事前抑制に該当するものであつて、とりわけ、その対象が公務員又は公職選挙の候補者に対する評価、批判等の表現行為に関するものである場合には、そのこと自体から、一般にそれが公共の利害に関する事項であるということができ、前示のような憲法二一条一項の趣旨(前記(二)参照)に照らし、その表現が私人の名誉権に優先する社会的価値を含み憲法上特に保護されるべきであることにかんがみると、当該表現行為に対する事前差止めは、原則として許されないものといわなければならない。ただ、右のような場合においても、その表現内容が真実でなく、又はそれが専ら公益を図る目的のものでないことが明白であつて、かつ、被害者が重大にして著しく回復困難な損害を被る虞があるときは、当該表現行為はその価値が被害者の名誉に劣後することが明らかであるうえ、有効適切な救済方法としての差止めの必要性も肯定されるから、かかる実体的要件を具備するときに限つて、例外的に事前差止めが許されるものというべきであり、このように解しても上来説示にかかる憲法の趣旨に反するものとはいえない。」
「事前差止めを命ずる仮処分命令を発するについては、口頭弁論又は債務者の審尋を行い、表現内容の真実性等の主張立証の機会を与えることを原則とすべきものと解するのが相当である。ただ、差止めの対象が公共の利害に関する事項についての表現行為である場合においても、口頭弁論を開き又は債務者の審尋を行うまでもなく、債権者の提出した資料によつて、その表現内容が真実でなく、又はそれが専ら公益を図る目的のものでないことが明白であり、かつ、債権者が重大にして著しく回復困難な損害を被る虞があると認められるときは、口頭弁論又は債務者の審尋を経ないで差止めの仮処分命令を発したとしても、憲法二一条の前示の趣旨に反するものということはできない。けだし、右のような要件を具備する場合に限つて無審尋の差止めが認められるとすれば、債務者に主張立証の機会を与えないことによる実害はないといえるからであり、また、一般に満足的仮処分の決定に対しては債務者は異議の申立てをするとともに当該仮処分の執行の停止を求めることもできると解されるから、表現行為者に対しても迅速な救済の途が残されているといえるのである。」


青少年保護条例が問題となったケースもあります。


(最判平1・9・19)

「本条例の定めるような有害図書が一般に思慮分別の未熟な青少年の性に関する価値観に悪い影響を及ぼし、性的な逸脱行為や残虐な行為を容認する風潮の助長につながるものであつて、青少年の健全な育成に有害であることは、既に社会共通の認識になつているといつてよい。さらに、自動販売機による有害図書の販売は、売手と対面しないため心理的に購入が容易であること、昼夜を問わず購入ができること、収納された有害図書が街頭にさらされているため購入意欲を刺激し易いことなどの点において、書店等における販売よりもその弊害が一段と大きいといわざるをえない。しかも、自動販売機業者において、前記審議会の意見聴取を経て有害図書としての指定がされるまでの間に当該図書の販売を済ませることが可能であり、このような脱法的行為に有効に対処するためには、本条例六条二項による指定方式も必要性があり、かつ、合理的であるというべきである。そうすると、有害図書自動販売機への収納の禁止は、青少年に対する関係において、憲法二一条一項に違反しないことはもとより、成人に対する関係においても、有害図書の流通を幾分制約することにはなるものの、青少年の健全な育成を阻害する有害環境を浄化するための規制に伴う必要やむをえない制約であるから、憲法二一条一項に違反するものではない。」


教科書検定も検閲に当たるかで問題となります。
教育権とかの関係でも重要な判例だったやつです。


(最判平5・3・16)

憲法二六条は、子どもに対する教育内容を誰がどのように決定するかについて、直接規定していない。憲法上、親は家庭教育等において子女に対する教育の自由を有し、教師は、高等学校以下の普通教育の場においても、授業等の具体的内容及び方法においてある程度の裁量が認められるという意味において、一定の範囲における教育の自由が認められ、私学教育の自由も限られた範囲において認められるが、それ以外の領域においては、国は、子ども自身の利益の擁護のため、又は子どもの成長に対する社会公共の利益と関心にこたえるため、必要かつ相当と認められる範囲において、子どもに対する教育内容を決定する権能を有する。もっとも、教育内容への国家的介入はできるだけ抑制的であることが要請され、殊に、子どもが自由かつ独立の人格として成長することを妨げるような介入、例えば、誤った知識や一方的な観念を子どもに植え付けるような内容の教育を施すことを強制することは許されない。また、教育行政機関が法令に基づき教育の内容及び方法に関して許容される目的のために必要かつ合理的と認められる規制を施すことは、必ずしも教育基本法一〇条の禁止するところではない。」
「本件検定による審査は、単なる誤記、誤植等の形式的なものにとどまらず、記述の実質的な内容、すなわち教育内容に及ぶものである。
 しかし、普通教育の場においては、児童、生徒の側にはいまだ授業の内容を批判する十分な能力は備わっていないこと、学校、教師を選択する余地も乏しく教育の機会均等を図る必要があることなどから、教育内容が正確かつ中立・公正で、地域、学校のいかんにかかわらず全国的に一定の水準であることが要請されるのであって、このことは、もとより程度の差はあるが、基本的には高等学校の場合においても小学校、中学校の場合と異ならないのである。また、このような児童、生徒に対する教育の内容が、その心身の発達段階に応じたものでなければならないことも明らかである。そして、本件検定が、右の各要請を実現するために行われるものであることは、その内容から明らかであり、その審査基準である旧検定基準も、右目的のための必要かつ合理的な範囲を超えているものとはいえず、子どもが自由かつ独立の人格として成長することを妨げるような内容を含むものでもない。また、右のような検定を経た教科書を使用することが、教師の授業等における前記のような裁量の余地を奪うものでもない。」


ここまでは教育権とかとの問題で、本題はここから。


憲法二一条二項にいう検閲とは、行政権が主体となって、思想内容等の表現物を対象とし、その全部又は一部の発表の禁止を目的とし、対象とされる一定の表現物につき網羅的一般的に、発表前にその内容を審査した上、不適当と認めるものの発表を禁止することを特質として備えるものを指すと解すべきである。本件検定は、前記のとおり、一般図書としての発行を何ら妨げるものではなく、発表禁止目的や発表前の審査などの特質がないから、検閲に当たらず、憲法二一条二項前段の規定に違反するものではない。このことは、当裁判所の判例の趣旨に徴して明らかである。」
憲法二一条一項にいう表現の自由といえども無制限に保障されるものではなく、公共の福祉による合理的で必要やむを得ない限度の制限を受けることがあり、その制限が右のような限度のものとして容認されるかどうかは、制限が必要とされる程度と、制限される自由の内容及び性質、これに加えられる具体的制限の態様及び程度等を較量して決せられるべきものである。これを本件検定についてみるのに、(一) 前記のとおり、普通教育の場においては、教育の中立・公正、一定水準の確保等の要請があり、これを実現するためには、これらの観点に照らして不適切と認められる図書の教科書としての発行、使用等を禁止する必要があること(普通教育の場でこのような教科書を使用することは、批判能力の十分でない児童、生徒に無用の負担を与えるものである)、(二) その制限も、右の観点からして不適切と認められる内容を含む図書のみを、教科書という特殊な形態において発行を禁ずるものにすぎないことなどを考慮すると、本件検定による表現の自由の制限は、合理的で必要やむを得ない限度のものというべきであって、憲法二一条一項の規定に違反するものではない。このことは、当裁判所の判例の趣旨に徴して明らかである。
所論引用の最高裁昭和五六年(オ)第六〇九号同六一年六月一一日大法廷判決・民集四〇巻四号八七二頁は、発表前の雑誌の印刷、製本、販売、頒布等を禁止する仮処分、すなわち思想の自由市場への登場を禁止する事前抑制そのものに関する事案において、右抑制は厳格かつ明確な要件の下においてのみ許容され得る旨を判示したものであるが、本件は思想の自由市場への登場自体を禁ずるものではないから、右判例の妥当する事案ではない。」


報道の自由も、いろいろな社会的法益と衝突する事例が多いです。


(最大決昭44・11・26)「博多駅テレビフィルム提出命令事件」

「報道機関の報道は、民主主義社会において、国民が国政に関与するにつき、重要な判断の資料を提供し、国民の「知る権利」に奉仕するものである。したがつて、思想の表明の自由とならんで、事実の報道の自由は、表現の自由を規定した憲法二一条の保障のもとにあることはいうまでもない。また、このような報道機関の報道が正しい内容をもつためには、報道の自由とともに、報道のための取材の自由も、憲法二一条の精神に照らし、十分尊重に値いするものといわなければならない。
 ところで、本件において、提出命令の対象とされたのは、すでに放映されたフイルムを含む放映のために準備された収材フイルムである。それは報道機関の取材活動の結果すでに得られたものであるから、その提出を命ずることは、右フイルムの取材活動そのものとは直接関係がない。もつとも、報道機関がその取材活動によつて得たフイルムは、報道機関が報道の目的に役立たせるためのものであつて、このような目的をもつて取材されたフイルムが、他の目的、すなわち、本件におけるように刑事裁判の証拠のために使用されるような場合には、報道機関の将来における取材活動の自由を妨げることになるおそれがないわけではない。しかし、取材の自由といつても、もとより何らの制約を受けないものではなく、たとえば公正な裁判の実現というような憲法上の要請があるときは、ある程度の制約を受けることのあることも否定することができない。
 本件では、まさに、公正な刑事裁判の実現のために、取材の自由に対する制約が許されるかどうかが問題となるのであるが、公正な刑事裁判を実現することは、国家の基本的要請であり、刑事裁判においては、実体的真実の発見が強く要請されることもいうまでもない。このような公正な刑事裁判の実現を保障するために、報道機関の取材活動によつて得られたものが、証拠として必要と認められるような場合には、取材の自由がある程度の制約を蒙ることとなつてもやむを得ないところというべきである。しかしながら、このような場合においても、一面において、審判の対象とされている犯罪の性質、態様、軽重および取材したものの証拠としての価値、ひいては、公正な刑事裁判を実現するにあたつての必要性の有無を考慮するとともに、他面において、取材したものを証拠として提出させられることによつて報道機関の取材の自由が妨げられる程度およびこれが報道の自由に及ぼす影響の度合その他諸般の事情を比較衡量して決せられるべきであり、これを刑事裁判の証拠として使用することがやむを得ないと認められる場合においても、それによつて受ける報道機関の不利益が必要な限度をこえないように配慮されなけれぼならない。」


(最決平1・1・30)「日本テレビビデオ差押え事件」

「 報道機関の報道は、民主主義社会において、国民が国政に関与するにつき重要な判断の資料を提供し、国民の「知る権利」に奉仕するものであつて、表現の自由を保障した憲法二一条の保障の下にあり、したがつて報道のための取材の自由もまた憲法二一条の趣旨に照らし、十分尊重されるべきものであること、しかし他方、取材の自由も何らの制約をも受けないものではなく、例えば公正な裁判の実現というような憲法上の要請がある場合には、ある程度の制約を受けることのあることも否定できないことは、いずれも博多駅事件決定が判示するとおりである。もつとも同決定は、付審判請求事件を審理する裁判所の提出命令に関する事案であるのに対し、本件は、検察官の請求によつて発付された裁判官の差押許可状に基づき検察事務官が行つた差押処分に関する事案であるが、国家の基本的要請である公正な刑事裁判を実現するためには、適正迅速な捜査が不可欠の前提であり、報道の自由ないし取材の自由に対する制約の許否に関しては両者の間に本質的な差異がないことは多言を要しないところである。同決定の趣旨に徴し、取材の自由が適正迅速な捜査のためにある程度の制約を受けることのあることも、またやむを得ないものというべきである。そして、この場合においても、差押の可否を決するに当たつては、捜査の対象である犯罪の性質、内容、軽重等及び差し押えるべき取材結果の証拠としての価値、ひいては適正迅速な捜査を遂げるための必要性と、取材結果を証拠として押収されることによつて報道機関の報道の自由が妨げられる程度及び将来の取材の自由が受ける影響その他諸般の事情を比較衡量すべきであることはいうまでもない(同決定参照)。
 右の見地から本件について検討すると、本件差押処分は、被疑者AがいわゆるB疑惑に関する国政調査権の行使等に手心を加えてもらいたいなどの趣旨で衆議院議員Cに対し三回にわたり多額の現金供与の申込をしたとされる贈賄被疑事件を搜査として行われたものである。同事件は、国民が関心を寄せていた重大な事犯であるが、その被疑事実の存否、内容等の解明は、事案の性質上当事者両名の供述に負う部分が大であるところ、本件差押前の段階においては、Aは現金提供の趣旨等を争つて被疑事実を否認しており、またCも事実関係の記憶が必ずしも明確ではないため、他に収集した証拠を合わせて検討してもなお事実認定上疑点が残り、その解明のため更に的確な証拠の収集を期待することが困難な状況にあつた。しかもAは、本件ビデオテープ中の未放映部分に自己の弁明を裏付ける内容が存在する旨強く主張していた。そうしてみると、AとCの面談状況をありのままに収録した本件ビデオテープは、証拠上極めて重要な価値を有し、事件の全容を解明し犯罪の成否を判断する上で、ほとんど不可欠のものであつたと認められる。他方、本件ビデオテープがすべて原本のいわゆるマザーテープであるとしても、申立人は、差押当時においては放映のための編集を了し、差押当日までにこれを放映しているのであつて、本件差押処分により申立人の受ける不利益は、本件ビデオテープの放映が不可能となり報道の機会が奪われるという不利益ではなく、将来の取材の自由が妨げられるおそれがあるという不利益にとどまる。右のほか、本件ビデオテープは、その取材経緯が証拠の保全を意図したCからの情報提供と依頼に基づく特殊なものであること、当のCが本件贈賄被疑事件を告発するに当たり重要な証拠資料として本件ビデオテープの存在を挙げていること、差押に先立ち検察官が報道機関としての立場に配慮した事前折衝を申立人との間で行つていること、その他諸般の事情を総合して考えれば、報道機関の報道の自由、取材の自由が十分これを尊重すべきものであるとしても、前記不利益は、適正迅速な捜査を遂げるためになお忍受されなければならないものというべきであり、本件差押処分は、やむを得ないものと認められる。」


(最決平2・7・9)「TBSビデオ押収事件」

「本件差押は、暴力団組長である被疑者が、組員らと共謀の上債権回収を図るため暴力団事務所において被害者に対し加療約一箇月間を要する傷害を負わせ、かつ、被害者方前において団体の威力を示し共同して被害者を脅迫し、暴力団事務所において団体の威力を示して脅迫したという、軽視することのできない悪質な傷害、暴力行為等処罰に関する法律違反被疑事件の搜査として行われたものである。しかも、件差押は、被疑者、共犯者の供述が不十分で、関係者の供述も一致せず、傷害事件の重要な部分を確定し難かったため、真相を明らかにする必要上、右の犯行状況等を収録したと推認される本件ビデオテープ(原決定添付目録15ないし18)をし押さえたものであり、右ビデオテープは、事案の全容を解明して犯罪の成否を判断する上で重要な証拠価値をつものであったと認められる。他方、本件ビデオテープは、すべていわゆるマザーテープであるが、申立人において差押当時既に放映のための編集を終了し、編集に係るものの放映を済ませていたのであって、本件差押により申立人の受ける不利益は、本件ビデオテープの放映が不可能となって報道の機会が奪われるというものではなかった。また本件の撮影は、暴力団組長を始め組員の協力を得て行われたものであって、右取材協力者は、本件ビデオテープが放映されることを了承していたのであるから、報道機関たる申立人が右取材協力者のためその身元を秘匿するなど擁護しなけれならない利益は、ほとんど存在しない。さらに本件は、撮影開始後複すじ数の組員により暴行が繰り返し行われていることを現認しながら、その撮影を続けたものであって、犯罪者の協力により犯行現場を撮影収録したものといえるが、そのような取材を報道のための取材の自由の一態様として保護しなけれならない必要性は疑わしいといわざるを得ない。そうすると、本件差押により、申立人を始め報道機関において、将来本件と同様の方法により取材をすることが仮に困難になるとしても、その不利益はさして考慮に値しない。このような事情を総合すると、本件差押は、適正迅速な捜査の遂行のためやむを得ないものであり、申立人の受ける不利益は、受忍すべきものというべきである。」


猿払事件では、公務員の意思表明そのものの制約を目的とする「直接的規制」と、公務員の政治活動から生じる弊害の防止を目的とする「間接的、付随的規制」とにわけています(規則類型論)。
でも、やっぱり表現の自由への考慮は希薄です。


(最大判昭49・11・6)

憲法二一条の保障する表現の自由は、民主主義国家の政治的基盤をなし、国民の基本的人権のうちでもとりわけ重要なものであり、法律によつてもみだりに制限することができないものである。そして、およそ政治的行為は、行動としての面をもつほかに、政治的意見の表明としての面をも有するものであるから、その限りにおいて、憲法二一条による保障を受けるものであることも、明らかである。国公法一〇二条一項及び規則によつて公務員に禁止されている政治的行為も多かれ少なかれ政治的意見の表明を内包する行為であるから、もしそのような行為が国民一般に対して禁止されるのであれば、憲法違反の問題が生ずることはいうまでもない。
 しかしながら、国公法一〇二条一項及び規則による政治的行為の禁止は、もとより国民一般に対して向けられているものではなく、公務員のみに対して向けられているものである。ところで、国民の信託による国政が国民全体への奉仕を旨として行われなければならないことは当然の理であるが、「すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。」とする憲法一五条二項の規定からもまた、公務が国民の一部に対する奉仕としてではなく、その全体に対する奉仕として運営されるべきものであることを理解することができる。公務のうちでも行政の分野におけるそれは、憲法の定める統治組織の構造に照らし、議会制民主主義に基づく政治過程を経て決定された政策の忠実な遂行を期し、もつぱら国民全体に対する奉仕を旨とし、政治的偏向を排して運営されなければならないものと解されるのであつて、そのためには、個々の公務員が、政治的に、一党一派に偏することなく、厳に中立の立場を堅持して、その職務の遂行にあたることが必要となるのである。すなわち、行政の中立的運営が確保され、これに対する国民の信頼が維持されることは、憲法の要請にかなうものであり、公務員の政治的中立性が維持されることは、国民全体の重要な利益にほかならないというべきである。したがつて、公務員の政治的中立性を損うおそれのある公務員の政治的行為を禁止することは、それが合理的で必要やむをえない限度にとどまるものである限り、憲法の許容するところであるといわなければならない。」


「優越的地位」に報道の自由はどうしても負けてしまう気がします。
報道の自由憲法上の権利ですし、考慮がもう少しあってもいいのではないでしょうか。





意見審査基準についてもいろいろな判例があるのですが、今日はとりあえずここまでで。