教育権の所在について調べてみました。


国民の教育権説と国家の教育権説が有名です。


国民の教育権説的な考えをとった判例には、次のものがあります。



(東京地裁昭45・7・17)

「子どもは未来における可能性を持つ存在であることを本質とするから、将来においてその人間性を十分に開花させるべく自ら学習し、事物を知り、これによって自らを成長させることが子どもの生来的権利であり、このような子どもの学習する権利を保障するために教育を授けることは国民的課題であるからにほかならないと考えられる。」
「教育の本質は、このような子どもの学習する権利を充足」することなので、「子どもの教育を受ける権利に対応して子どもを教育する責務をになうのは親を中心とした国民全体」である。



国家の教育権説的な考えをとった判例には次のものがあります。


(東京地裁昭49・7・16)「第一次家永訴訟第一審判決」

「そもそも、教育とは可能性にみちた子どもの能力を全面かつ十分に開花させ、子どもの人格の完成を目指して行われる営みであり、憲法26条の教育を受ける権利の保障は、子どもに対してその個人的人格を尊重し、将来民主主義社会の一員となるための人間形成を目指して自ら学習する機会を保障しようとするものであって、これは子どもの自然的権利に属するというべきである」
「親は自信で右責務を果たす代わりに子どもを国または公共団体の営む学校に入れて教育を受けさせることにより教育義務を実現するようになった」
「教育の権利は親の権利から親の義務へと転化し、子どもの教育を請ける権利の保障は確立された」
「現代公教育においては教育の私事性はつとに捨象され、これを乗り越え、国が国民の付託に基づき自らの立場と責任において公教育を実施する権限を有するものと解さざるをえない」




折衷説は有名な判例があります。




(最判昭51・5・21)

「ところで、わが国の法制上子どもの教育の内容を決定する権能が誰に帰属するとされているかについては、二つの極端に対立する見解があり、そのそれぞれが検察官及び弁護人の主張の基底をなしているようにみうけられる。すなわち、一の見解は、子どもの教育は、親を含む国民全体の共通関心事であり、公教育制度は、このような国民の期待と要求に応じて形成、実施されるものであつて、そこにおいて支配し、実現されるべきものは国民全体の教育意思であるが、この国民全体の教育意思は、憲法の採用する議会制民主主義の下においては、国民全体の意思の決定の唯一のルートである国会の法律制定を通じて具体化されるべきものであるから、法律は、当然に、公教育における教育の内容及び方法についても包括的にこれを定めることができ、また、教育行政機関も、法律の授権に基づく限り、広くこれらの事項について決定権限を有する、と主張する。これに対し、他の見解は、子どもの教育は、憲法二六条の保障する子どもの教育を受ける権利に対する責務として行われるべきもので、このような責務をになう者は、親を中心とする国民全体であり、公教育としての子どもの教育は、いわば親の教育義務の共同化ともいうべき性格をもつのであつて、それ故にまた、教基法一〇条一項も、教育は、国民全体の信託の下に、これに対して直接に責任を負うように行われなければならないとしている、したがつて、権力主体としての国の子どもの教育に対するかかわり合いは、右のような国民の教育義務の遂行を側面から助成するための諸条件の整備に限られ、子どもの教育の内容及び方法については、国は原則として介入権能をもたず、教育は、その実施にあたる教師が、その教育専門家としての立場から、国民全体に対して教育的、文化的責任を負うような形で、その内容及び方法を決定、遂行すべきものであり、このことはまた、憲法二三条における学問の自由の保障が、学問研究の自由ばかりでなく、教授の自由をも含み、教授の自由は、教育の本質上、高等教育のみならず、普通教育におけるそれにも及ぶと解すべきことによつても裏付けられる、と主張するのである。当裁判所は、右の二つの見解はいずれも極端かつ一方的であり、そのいずれをも全面的に採用することはできないと考える。」
憲法中教育そのものについて直接の定めをしている規定は憲法二六条であるが、同条は、一項において、「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。」と定め、二項において、「すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。」と定めている。この規定は、福祉国家の理念に基づき、国が積極的に教育に関する諸施設を設けて国民の利用に供する責務を負うことを明らかにするとともに、子どもに対する基礎的教育である普通教育の絶対的必要性にかんがみ、親に対し、その子女に普通教育を受けさせる義務を課し、かつ、その費用を国において負担すべきことを宣言したものであるが、この規定の背後には、国民各自が、一個の人間として、また、一市民として、成長、発達し、自己の人格を完成、実現するために必要な学習をする固有の権利を有すること、特に、みずから学習することのできない子どもは、その学習要求を充足するための教育を自己に施すことを大人一般に対して要求する権利を有するとの観念が存在していると考えられる。換言すれば、子どもの教育は、教育を施す者の支配的権能ではなく、何よりもまず、子どもの学習をする権利に対応し、その充足をはかりうる立場にある者の責務に属するものとしてとらえられているのである。
 しかしながら、このように、子どもの教育が、専ら子どもの利益のために、教育を与える者の責務として行われるべきものであるということからは、このような教育の内容及び方法を、誰がいかにして決定すべく、また、決定することができるかという問題に対する一定の結論は、当然には導き出されない。すなわち、同条が、子どもに与えるべき教育の内容は、国の一般的な政治的意思決定手続によつて決定されるべきか、それともこのような政治的意思の支配、介入から全く自由な社会的、文化的領域内の問題として決定、処理されるべきかを、直接一義的に決定していると解すべき根拠は、どこにもみあたらないのである。」
「学問の自由を保障した憲法二三条により、学校において現実に子どもの教育の任にあたる教師は、教授の自由を有し、公権力による支配、介入を受けないで自由に子どもの教育内容を決定することができるとする見解も、採用することができない。確かに、憲法の保障する学問の自由は、単に学問研究の自由ばかりでなく、その結果を教授する自由をも含むと解されるし、更にまた、専ら自由な学問的探求と勉学を旨とする大学教育に比してむしろ知識の伝達と能力の開発を主とする普通教育の場においても、例えば教師が公権力によつて特定の意見のみを教授することを強制されないという意味において、また、子どもの教育が教師と子どもとの間の直接の人格的接触を通じ、その個性に応じて行われなければならないという本質的要請に照らし、教授の具体的内容及び方法につきある程度自由な裁量が認められなければならないという意味においては、一定の範囲における教授の自由が保障されるべきことを肯定できないではないしかし、大学教育の場合には、学生が一応教授内容を批判する能力を備えていると考えられるのに対し、普通教育においては、児童生徒にこのような能力がなく、教師が児童生徒に対して強い影響力、支配力を有することを考え、また、普通教育においては、子どもの側に学校や教師を選択する余地が乏しく、教育の機会均等をはかる上からも全国的に一定の水準を確保すべき強い要請があること等に思いをいたすときは、普通教育における教師に完全な教授の自由を認めることは、とうてい許されないところといわなければならない。もとより、教師間における討議や親を含む第三者からの批判によつて、教授の自由にもおのずから抑制が加わることは確かであり、これに期待すべきところも少なくないけれども、それによつて右の自由の濫用等による弊害が効果的に防止されるという保障はなく、憲法が専ら右のような社会的自律作用による抑制のみに期待していると解すべき合理的根拠は、全く存しないのである。」
「思うに、子どもはその成長の過程において他からの影響によつて大きく左右されるいわば可塑性をもつ存在であるから、子どもにどのような教育を施すかは、その子どもが将来どのような大人に育つかに対して決定的な役割をはたすものである。それ故、子どもの教育の結果に利害と関心をもつ関係者が、それぞれその教育の内容及び方法につき深甚な関心を抱き、それぞれの立場からその決定、実施に対する支配権ないしは発言権を主張するのは、極めて自然な成行きということができる。子どもの教育は、前述のように、専ら子どもの利益のために行われるべきものであり、本来的には右の関係者らがその目的の下に一致協力して行うべきものであるけれども、何が子どもの利益であり、また、そのために何が必要であるかについては、意見の対立が当然に生じうるのであつて、そのために教育内容の決定につき矛盾、対立する主張の衝突が起こるのを免れることができない。憲法がこのような矛盾対立を一義的に解決すべき一定の基準を明示的に示していないことは、上に述べたとおりである。そうであるとすれば、憲法の次元におけるこの問題の解釈としては、右の関係者らのそれぞれの主張のよつて立つ憲法上の根拠に照らして各主張の妥当すべき範囲を画するのが、最も合理的な解釈態度というべきである。
 そして、この観点に立つて考えるときは、まず親は、子どもに対する自然的関係により、子どもの将来に対して最も深い関心をもち、かつ、配慮をすべき立場にある者として、子どもの教育に対する一定の支配権、すなわち子女の教育の自由を有すると認められるが、このような親の教育の自由は、主として家庭教育等学校外における教育や学校選択の自由にあらわれるものと考えられるし、また、私学教育における自由や前述した教師の教授の自由も、それぞれ限られた一定の範囲においてこれを肯定するのが相当であるけれども、それ以外の領域においては、一般に社会公共的な問題について国民全体の意思を組織的に決定、実現すべき立場にある国は、国政の一部として広く適切な教育政策を樹立、実施すべく、また、しうる者として、憲法上は、あるいは子ども自身の利益の擁護のため、あるいは子どもの成長に対する社会公共の利益と関心にこたえるため、必要かつ相当と認められる範囲において、教育内容についてもこれを決定する権能を有するものと解さざるをえず、これを否定すべき理由ないし根拠は、どこにもみいだせないのである。もとより、政党政治の下で多数決原理によつてされる国政上の意思決定は、さまざまな政治的要因によつて左右されるものであるから、本来人間の内面的価値に関する文化的な営みとして、党派的な政治的観念や利害によつて支配されるべきでない教育にそのような政治的影響が深く入り込む危険があることを考えるときは、教育内容に対する右のごとき国家的介入についてはできるだけ抑制的であることが要請されるし、殊に個人の基本的自由を認め、その人格の独立を国政上尊重すべきものとしている憲法の下においては、子どもが自由かつ独立の人格として成長することを妨げるような国家的介入、例えば、誤つた知識や一方的な観念を子どもに植えつけるような内容の教育を施すことを強制するようなことは、憲法二六条、一三条の規定上からも許されないと解することができるけれども、これらのことは、前述のような子どもの教育内容に対する国の正当な理由に基づく合理的な決定権能を否定する理由となるものではないといわなければならない。」





長い長い。
色つけたのは、個人的に重要と思ったところです。

教師の教育の自由について調べてみました。

憲法上、教育の自由を保障する明文の規定はありません。
しかし、23条や26条を根拠として、憲法上保障された人権であると考えられています。


憲法23条
学問の自由は、これを保障する。

憲法26条
1項 すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
2項 すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。



教育の自由に関する判例も有名なものがたくさんあります。



(東京地裁昭45・7・17)「第二次家永訴訟第一審判決」

下級教育機関において教育を受ける児童、生徒は、いずれも年少であって、大学における学生のように高度の理解能力を有せず、また教えられたところを批判的に摂取する力もないから、これらの児童、生徒に対して、学問研究の結果をそのままに与えることは妥当でなく、したがって、教育は児童、生徒の心身の発達段階に応じ、児童が真に教えられたところを理解し、自らの人間性を開発していくことができるような形でなされなければならず、また、子どもが事物を批判的に考察し、全体として正しい知識を得、真実に近づくような方法でなされなければならないわけであるが、いわゆる教育的配慮は右の点を内容とするものでなければならない。そして、このような教育的配慮が正しくなされるためには、児童、生徒の心身の発達、心理、社会環境との関連等について科学的な知識が不可欠であり、教育学はまさにこのような科学である。すなわち、こうした教育的配慮をなすこと自体が一の学問的実践であり、学問と教育とは本質的に不可分一体というべきである。してみれば、憲法23条は、教師に対し、学問研究の自由はもちろんのこと学問研究の結果自らの正当とする学問的見解を教授する自由をも保障していると解するのが相当である。



(東京地裁昭49・7・16)「第一次家永訴訟第一審判決」

教育ないし教授の自由は、学問の自由と密接な関係を有するが、必ずしもこれに含まれるものではない(最判昭38・5・22「ポポロ事件判決」)ので、23条の学問の自由は、初等中等教育機関の教育の自由を含まない。



(最判昭51・5・21)「旭川学テ事件」

憲法の保障する学問の自由は、単に学問研究の自由ばかりでなく、その結果を教授する自由をも含むと解されるし、更にまた、専ら自由な学問的探求と勉学を旨とする大学教育に比してむしろ知識の伝達と能力の開発を主とする普通教育の場においても、例えば教師が公権力によつて特定の意見のみを教授することを強制されないという意味において、また、子どもの教育が教師と子どもとの間の直接の人格的接触を通じ、その個性に応じて行われなければならないという本質的要請に照らし、教授の具体的内容及び方法につきある程度自由な裁量が認められなければならないという意味においては、一定の範囲における教授の自由が保障されるべきことを肯定できないではない。しかし、大学教育の場合には、学生が一応教授内容を批判する能力を備えていると考えられるのに対し、普通教育においては、児童生徒にこのような能力がなく、教師が児童生徒に対して強い影響力、支配力を有することを考え、また、普通教育においては、子どもの側に学校や教師を選択する余地が乏しく、教育の機会均等をはかる上からも全国的に一定の水準を確保すべき強い要請があること等に思いをいたすときは、普通教育における教師に完全な教授の自由を認めることは、とうてい許されないところといわなければならない。もとより、教師間における討議や親を含む第三者からの批判によつて、教授の自由にもおのずから抑制が加わることは確かであり、これに期待すべきところも少なくないけれども、それによつて右の自由の濫用等による弊害が効果的に防止されるという保障はなく、憲法が専ら右のような社会的自律作用による抑制のみに期待していると解すべき合理的根拠は、全く存しないのである。




教育権の所在とかも重要です。
なにげにここらへんは重要ポイントが多いです。多すぎます。

学習権について調べてみました。


有名な判例があります。


憲法26条
1項 すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
2項 すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。



(東京地裁昭45・7・17)「第二次家永訴訟大一審判決」

国民ことに子どもに教育を受ける権利を保障するゆえんのものは、民主主義国家が一人一人の自覚的な国民の存在を前提とするものであり、また、教育が次代をになう新しい世代を育成するという国民全体の関心事であることにもよるが、同時に、教育がなによりも子ども自らの要求する権利であるからだと考えられる。すなわち、近代および現代においては、個人の尊厳が確立され、子どもにも当然その人格が尊重され、人権が保障されるべきであるが、子どもは未来における可能性を持つ存在であることを本質とするから、将来においてその人間性を十分に開花させるべく自ら学習し、事物を知り、これによって自らを成長させることが子どもの生来的権利であり、このような子どもの学習する権利を保障するために教育を授けることは国民的課題であるからにほかならないと考えられる。



(最判昭51・5・21)「旭川学テ事件」

(憲法26条の)規定の背後には、国民各自が、一個の人間として、また、一市民として、成長、発達し、自己の人格を感性、実現するために必要な学習をする固有の権利を有すること、特に、みずから学習することのできないこどもは、その学習要求を充足するための教育を自己に施すことを大人一般に対して要求する権利を有するとの観念が存在していると考えられる。



教育権との関係も重要です。
旭川学テは長いけど、重要な部分が多すぎる判例です。

教師の教育の自由とかも旭川学テで指摘されています。
これから憲法続けます。

失踪宣告について調べてみました。

民法30条(失踪の宣告)
1項 不在者の生死が7年間明らかでないときは、家庭裁判所は、利害関係人の請求により、失踪の宣告をすることができる。
2項 戦地に臨んだ者、沈没した船舶の中に在った者その他死亡の原因となるべき危難に遭遇した者の生死が、それぞれ、戦争が止んだ後、船舶が沈没した後又はその他の危難が去った後1年間明らかでないときも、前項と同様とする。


民法31条(失踪の宣告の効力)
前条第1項の規定により失踪の宣告を受けた者は同項の期間が満了した時に、同条第2項の規定により失踪の宣告を受けた者はその危難が去った時に、死亡したものとみなす。


民法32条(失踪の宣告の取消)
1項 失踪者が生存すること又は前条に規定する時と異なる時に死亡したことの証明があったときは、家庭裁判所は、本人又は利害関係人の請求により、失踪の宣告を取り消さなければならない。この場合において、その取消しは、失踪の宣告後その取消し前に善意でした行為の効力に影響を及ぼさない。
2項 失踪の宣告によって財産を得た者は、その取消しによって権利を失う。ただし、現に利益を受けている限度においてのみ、その財産を返還する義務を負う。



戸籍法89条には認定死亡という制度があります。


戸籍法89条
水難、火災その他の事変によつて死亡した者がある場合には、その取調をした官庁又は公署は、死亡地の市町村長に死亡の報告をしなければならない。但し、外国又は法務省令で定める地域で死亡があつたときは、死亡者の本籍地の市町村長に死亡の報告をしなければならない。



たとえば、海中に墜落した飛行機に乗り合わせていた人の死亡は確実視されても、最後まで遺体が見つからなかったというような場合に適用されます。
戸籍上、一応死亡として扱われ、権利能力に関わる民法上の制度ではなく、戸籍上の手続に過ぎません。
なので、本人が生きて現れれば、当然に効力を失い、そうでない限り、死亡したのと同様に扱われます。
たとえば、戸籍上、妻は再婚ができます。




失踪宣告(民法30条〜32条)は、認定死亡と違って、民法上の制度であり、従来の住所を中心とする私法上の法律関係は、死亡したのと同じ扱いがなされます。
相続も開始するし、夫が失踪宣告を受けた妻は、再婚もできます。


失踪宣告には普通失踪と特別失踪があります。
特別失踪は31条、普通失踪は30条1項に規定があります。

ちなみに、配偶者の帰りを7年も待つ必要はありません。


民法770条(裁判上の離婚)
1項 夫婦の一方は、次に掲げる場合に限り、離婚の訴えを提起することができる。
3号 配偶者の生死が3年以上明らかでないとき。


また、失踪宣告により、失踪者は死亡とみなされるため、本人が生きて帰ってきても当然には効力を失いません。
本人または利害関係人は、過程裁判所に、失踪宣告の取消(民法32条1項)を求めることができます。
この取消には遡及効があります。


失踪者の配偶者が再婚していた場合には、この取消がどういう効力を持つか問題があります。


従来の通説では、前婚については離婚原因(770条1項5号)、後婚については取消原因(744条)となるとされていましたが、常に後婚が有効とする説も有力です。


770条(裁判上の離婚)
1項 夫婦の一方は、次に掲げる場合に限り、離婚の訴えを提起することができる。
5号 その他婚姻を継続し難い重大な事由があるとき。


744条(不適法な婚姻の取消)
1項 第731条から第736条までの規定に違反した婚姻は、各当事者、その親族又は検察官から、その取消しを家庭裁判所に請求することができる。ただし、検察官は、当事者の一方が死亡した後は、これを請求することができない。
2項 第732条又は第733条の規定に違反した婚姻については、当事者の配偶者又は前配偶者も、その取消しを請求することができる。

732条(重婚の禁止)
配偶者のある者は、重ねて婚姻することができない。



択一に出てきたりして油断できません。

法人格否認の法理について調べてみました。

法人格否認の法理とは、会社の存在を全面的に否定せずに、特定の事案に関し、会社という外観を否定し、その背後にある実態を直接的に把握して、これに即した法律的扱いを試みる法理のことをいいます。
一般法理のような性格を有するため、公共の便益と正義の目的にかなう限りで、限定的に認められるものです。



法人格否認の法理を認めた判例には、次のものがあります。




(最判昭44・2・27)

「およそ社団法人において法人とその構成員たる社員とが法律上別個の人格であることはいうまでもなく、このことは社員が一人である場合でも同様である。しかし、およそ法人格の付与は社会的に存在する団体についてその価値を評価してなされる立法政策によるものであつて、これを権利主体として表現せしめるに値すると認めるときに、法的技術に基づいて行なわれるものなのである。従つて、法人格が全くの形骸にすぎない場合、またはそれが法律の適用を回避するために濫用されるが如き場合においては、法人格を認めることは、法人格なるものの本来の目的に照らして許すべからざるものというべきであり、法人格を否認すべきことが要請される場合を生じるのである。」
「思うに、株式会社は準則主義によつて容易に設立され得、かつ、いわゆる一人会社すら可能であるため、株式会社形態がいわば単なる藁人形に過ぎず、会社即個人であり、個人則会社であつて、その実質が全く個人企業と認められるが如き場合を生じるのであつて、このような場合、これと取引する相手方としては、その取引がはたして会社としてなされたか、または個人としてなされたか判然しないことすら多く、相手方の保護を必要とするのである。ここにおいて次のことが認められる。すなわち、このような場合、会社という法的形態の背後に存在する実体たる個人に迫る必要を生じるときは、会社名義でなされた取引であつても、相手方は会社という法人格を否認して恰も法人格のないと同様、その取引をば背後者たる個人の行為であると認めて、その責任を追求することを得、そして、また、個人名義でなされた行為であつても、相手方は敢て商法五〇四条を俟つまでもなく、直ちにその行為を会社の行為であると認め得るのである。けだし、このように解しなければ、個人が株式会社形態を利用することによつて、いわれなく相手方の利益が害される虞があるからである。」




(最判昭48・10・26)

「おもうに、株式会社が商法の規定に準拠して比較的容易に設立されうることに乗じ、取引の相手方からの債務履行請求手続を誤まらせ時間と費用とを浪費させる手段として、旧会社の営業財産をそのまま流用し、商号、代表取締役、営業目的、従業員などが旧会社のそれと同一の新会社を設立したような場合には、形式的には新会社の設立登記がなされていても、新旧両会社の実質は前後同一であり、新会社の設立は旧会社の債務の免脱を目的としてなされた会社制度の濫用であつて、このような場合、会社は右取引の相手方に対し、信義則上、新旧両会社が別人格であることを主張できず、相手方は新旧両会社のいずれに対しても右債務についてその責任を追求することができるものと解するのが相当である。」
「本件における前記認定事実を右の説示に照らして考えると、上告人は、昭和四二年一一月一七日前記のような目的、経緯のもとに設立され、形式上は旧会社と別異の株式会社の形態をとつてはいるけれども、新旧両会社は商号のみならずその実質が前後同一であり、新会社の設立は、被上告人に対する旧会社の債務の免脱を目的としてなされた会社制度の濫用であるというべきであるから、上告人は、取引の相手方である被上告人に対し、信義則上、上告人が旧会社と別異の法人格であることを主張しえない筋合にあり、したがつて、上告人は前記自白が事実に反するものとして、これを撤回することができず、かつ、旧会社の被上告人に対する本件居室明渡、延滞賃料支払等の債務につき旧会社とならんで責任を負わなければならないことが明らかである。」



もっとも、外観信頼保護の一般原則によっても、解決できたのではないかという考えも有力です。



また、阪高裁平12・7・28は、現物出資の詐害行為取消を主張しながら、同時に法人格否認の法理を主張することはできないとしています。
選択的主張はできることもありますが、詐害行為取消は、法人格の存在を前提とするものであり、法人格否認の法理を主張することとは相反することだからです。


なお、法人格否認の法理には、濫用事例と形骸化事例があります。
濫用事例は、会社の背後者が会社を自己の意のままに支配していること(支配要件)、違法・不当な目的のために法人格を利用しようとしていること(目的要件)を有していることが要件で、形骸化事例は法人格が全くの形骸に過ぎず、総会や財産処分等の手続が行われていないことが要件とされていますが、はっきりと解釈が一致しているわけではありません。





返済逃れのために会社設立…。
凡人には想像つきません。

当事者訴訟について調べてみました。

行政訴訟法4条(当事者訴訟)
この法律において「当事者訴訟」とは、当事者間の法律関係を確認し又は形成する処分又は裁決に関する訴訟で法令の規定によりその法律関係の当事者の一方を被告とするもの及び公法上の法律関係に関する確認の訴えその他の公法上の法律関係に関する訴訟をいう。



当事者訴訟には形式的当事者訴訟実質的当事者訴訟(公法上の当事者訴訟)の2種類があります。



形式的当事者訴訟とは、4条前段の「当事者間の法律関係を確認し又は形成する処分又は裁決に関する訴訟で法令の規定によりその法律関係の当事者の一方を被告とするもの」をいいます。
大部分が損失補償請求にかかわるもので、たとえば、土地収用法は、収用委員会が裁定した保障金額に不服がある場合は、被収容者と企業者の当事者間で決着させるものとしています。
これは本来なら収用委員会の裁決の取消訴訟を提起して問題解決を図るものだが、土地収用法が当事者間で争われるものとしています。

つまり、形式的当事者訴訟は、行政庁の処分または裁決の取消をもとめる抗告訴訟であり、形式的に当事者訴訟とされたものなのです。

行政庁がこの形式的当事者訴訟を提起することができる処分または裁決を書面でする場合には、その相手方に対し、書面で教示することが義務付けられています。



行政事件訴訟法46条(取消訴訟等の提起に関する事項の教示)
3項 行政庁は、当事者間の法律関係を確認し又は形成する処分又は裁決に関する訴訟で法令の規定によりその法律関係の当事者の一方を被告とするものを提起することができる処分又は裁決をする場合には、当該処分又は裁決の相手方に対し、次に掲げる事項を書面で教示しなければならない。ただし、当該処分を口頭でする場合は、この限りでない。
1 当該訴訟の被告とすべき者
2 当該訴訟の出訴期間




実質的当事者訴訟(公法上の当事者訴訟)とは、4条後段の「公法上の法律関係に関する確認の訴えその他の公法上の法律関係に関する訴訟」をいいます。
抗告訴訟が行政庁の公権力の行使・不行使の適否を争う訴えであるのに対し、実質的当事者訴訟(公法上の当事者訴訟)は、権利主体が対等な立場で権利関係を争う訴訟です。
抗告訴訟民事訴訟と本質・構造が違っていますが、実質的当事者訴訟は通常の民事訴訟と本質・構造が同じです。
たとえば、公務員の地位確認訴訟や、給与支払い請求が実質的当事者訴訟にあたります。




行政事件訴訟法40条(出訴期間の定めがある当事者訴訟)
1項 法令に出訴期間の定めがある当事者訴訟は、その法令に別段の定めがある場合を除き、正当な理由があるときは、その期間を経過した後であつても、これを提起することができる。



当事者訴訟の審理手続は、原則として民事訴訟の例によりますが、取消訴訟に関する規定のうち、行政庁の訴訟参加、職権証拠調べ、判決の拘束力などの規定が準用されています。



行政事件訴訟法41条(抗告訴訟に関する規定の準用)
1項 第23条、第24条及び第35条の規定は当事者訴訟について、第23条の2の規定は当事者訴訟における処分又は裁決の理由を明らかにする資料の提出について準用する。
2項 第13条の規定は、当事者訴訟とその目的たる請求と関連請求の関係にある請求に係る訴訟とが各別の裁判所に係属する場合における移送に、第16条から第19条までの規定は、これらの訴えの併合について準用する。




(参考条文)

行政事件訴訟法23条(行政庁の訴訟参加)
1項 裁判所は、処分又は裁決をした行政庁以外の行政庁を訴訟に参加させることが必要であると認めるときは、当事者若しくはその行政庁の申立てにより又は職権で、決定をもつて、その行政庁を訴訟に参加させることができる。
2項 裁判所は、前項の決定をするには、あらかじめ、当事者及び当該行政庁の意見をきかなければならない。
3項 第1項の規定により訴訟に参加した行政庁については、民事訴訟法第45条第1項及び第2項の規定を準用する。


行政事件訴訟法24条(職権証拠調べ)
裁判所は、必要があると認めるときは、職権で、証拠調べをすることができる。ただし、その証拠調べの結果について、当事者の意見をきかなければならない。


行政事件訴訟法35条(訴訟費用の裁判の効力)
国又は公共団体に所属する行政庁が当事者又は参加人である訴訟における確定した訴訟費用の裁判は、当該行政庁が所属する国又は公共団体に対し、又はそれらの者のために、効力を有する。


行政事件訴訟法23条の2(釈明処分の特則)
1項 裁判所は、訴訟関係を明瞭にするため、必要があると認めるときは、次に掲げる処分をすることができる。
1 被告である国若しくは公共団体に所属する行政庁又は被告である行政庁に対し、処分又は裁決の内容、処分又は裁決の根拠となる法令の条項、処分又は裁決の原因となる事実その他処分又は裁決の理由を明らかにする資料(次項に規定する審査請求に係る事件の記録を除く。)であつて当該行政庁が保有するものの全部又は一部の提出を求めること。
2 前号に規定する行政庁以外の行政庁に対し、同号に規定する資料であつて当該行政庁が保有するものの全部又は一部の送付を嘱託すること。
2項 裁判所は、処分についての審査請求に対する裁決を経た後に取消訴訟の提起があつたときは、次に掲げる処分をすることができる。
1 被告である国若しくは公共団体に所属する行政庁又は被告である行政庁に対し、当該審査請求に係る事件の記録であつて当該行政庁が保有するものの全部又は一部の提出を求めること。
2 前号に規定する行政庁以外の行政庁に対し、同号に規定する事件の記録であつて当該行政庁が保有するものの全部又は一部の送付を嘱託すること。


行政事件訴訟法13条(関連請求に関わる訴訟の移送)
取消訴訟と次の各号の一に該当する請求(以下「関連請求」という。)に係る訴訟とが各別の裁判所に係属する場合において、相当と認めるときは、関連請求に係る訴訟の係属する裁判所は、申立てにより又は職権で、その訴訟を取消訴訟の係属する裁判所に移送することができる。ただし、取消訴訟又は関連請求に係る訴訟の係属する裁判所が高等裁判所であるときは、この限りでない。
1 当該処分又は裁決に関連する原状回復又は損害賠償の請求
2 当該処分とともに一個の手続を構成する他の処分の取消しの請求
3 当該処分に係る裁決の取消しの請求
4 当該裁決に係る処分の取消しの請求
5 当該処分又は裁決の取消しを求める他の請求
6 その他当該処分又は裁決の取消しの請求と関連する請求


行政事件訴訟法16条(請求の客観的併合)
1項 取消訴訟には、関連請求に係る訴えを併合することができる。
2項 前項の規定により訴えを併合する場合において、取消訴訟の第1審裁判所が高等裁判所であるときは、関連請求に係る訴えの被告の同意を得なければならない。被告が異議を述べないで、本案について弁論をし、又は弁論準備手続において申述をしたときは、同意したものとみなす。


行政事件訴訟法17条(共同訴訟)
1項 数人は、その数人の請求又はその数人に対する請求が処分又は裁決の取消しの請求と関連請求とである場合に限り、共同訴訟人として訴え、又は訴えられることができる。
2項 前項の場合には、前条第1項の規定を準用する。


行政事件訴訟法18条(第三者による請求の追加的併合)
三者は、取消訴訟の口頭弁論の終結に至るまで、その訴訟の当事者の一方を被告として、関連請求に係る訴えをこれに併合して提起することができる。この場合において、当該取消訴訟高等裁判所に係属しているときは、第16条第2項の規定を準用する。


行政事件訴訟法19条(原告による請求の追加的請求)
1項 原告は、取消訴訟の口頭弁論の終結に至るまで、関連請求に係る訴えをこれに併合して提起することができる。この場合において、当該取消訴訟高等裁判所に係属しているときは、第16条第2項の規定を準用する。
2項 前項の規定は、取消訴訟について民事訴訟法(平成8年法律第109号)第143条の規定の例によることを妨げない。






試験では、よく地位確認訴訟を問われていたような気がします。

錯誤について調べてみました。


行為者の認識した事実(主観)と、実際に発生した事実(客観)との間に不一致が生じること。



事実の錯誤…行為者の認識した事実と実際に生じた事実との不一致
法律の錯誤…行為者の違法判断と客観的な違法との不一致




構成要件的錯誤
構成要件該当事実についての行為者の表象と実際に生じたことの不一致。事実の錯誤の1つ。



・構成要件を基準とする分類
具体的事実の錯誤…認識した事実と発生した事実との不一致が同一構成要件の範囲内に属するもの。同一構成要件内の錯誤。
抽象的事実の錯誤…認識した事実と発生した事実との不一致が異なる構成要件にまたがるもの。異なる構成要件間の錯誤。




・錯誤の態様による分類
客体の錯誤
方法の錯誤(ねらいの錯誤)
因果関係の錯誤




違法性に関する事実の錯誤
違法性阻却事由を基礎付ける事実がないのに行為者があると誤信した場合。
誤想防衛。誤想過剰防衛。




法律の錯誤(違法性の錯誤)
行為者が錯誤によってその行為が法律上許されないことの認識を欠くこと。違法性の意識を欠くこと。
法の不知。あてはめの錯誤。





定義だけちょこちょこメモです。